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「国会月報」1994年2月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
はたして通信ネットワークの発展は、地方分散を促すちからを持つものなのか? ネットワーク社会がどういう社会形態として実現されていくか? この問題について、今後数回に分けて考察してみたいと思う。
これまでの数回の連載で、情報通信ネットワークの発達が、対人関係をつくるうえで大きな影響を及ぼす可能性を示した。その中でも、距離の制約の克服を強調してきた。
大都市圏への人口集中、それに伴う地方の過疎化が社会問題となって久しい。十年前のいわゆるニューメディア・ブームいらい、情報通信技術が「まちづくり」の目玉の一つとなったことも事実である。はたしてネットワーク社会は地方分散につながっていくのか? そもそも「タテ社会」日本で、ネットワーク社会がどのように形成されるのか?
まず、これまでの典型的なネットワーク社会の特徴を見てみたい。
必ず引き合いに出される例が、アメリカのシリコン・バレーだ。ここでは大学教授や企業の研究員、大企業などからスピンオフしたベンチャー企業家たちが、一つの「知識インフラ」を形成した。そして、個人間の広範なネットワークをつくりあげていった。個人が多くの専門家たちと交流し、その中で創意をはぐくんできたといわれている。研究者たちが多忙になると、今度は電子メールなどが利用されるようになった。これによって交流は一層さかんになり、競争的な協力関係がレベルの高い成果をつくりあげたという。ここで注目すべき点は、それぞれの交流が個人の資格のもとで自発的に形成されたものであること、そして、実際に交流するための「溜まり場」があったことである。
このような交流のかたちは、日本にも例がないわけではない。例えばバブル前の京浜工業地帯の中小・零細企業群。ここでは実際に相互依存関係にもとづく、ヨコのネットワークが形成されていた。「赤ちょうちん」が交流のための「溜まり場」を提供した。最近では札幌のソフトウェア産業が、これにあてはまる例となっているようだ。札幌の場合、二十四時間歓楽街ススキノが「溜まり場」を提供した。実際、ススキノが札幌の情報産業を育てたとの意見もある。
要約すると、ネットワーク社会では、なによりも人の集積が、さらには人が寄り集まる溜まり場のあることが、重要な形成要因であると考えられる。ところが、このような条件をみたしているのは、地方よりも大都市であることは明らかだ。実際、過去十年間を見てみると、東京と地方で一番差がついたのは情報較差である。都市の条件として、職住共存や高い人口密度があげられているのも、情報をうみだすためのダイナミズムが必要だからだ。
このように考えると、「情報通信ネットワークで地方分散が進む」などとは逆の話しで、東京を核とした大都市がますます巨大化しそうだ。
にもかかわらず、ここで「地方」に焦点をあてたのはなぜか? そして実際に、通信の発達で地方に散るひとが出てきたのはなぜか? ここでは東京という都市の「情報処理能力」を考える必要がある。
現在の日本社会の情報の流れは、コンピュータ・システムで例えれば、巨大な集中処理システムのようなものだ。「東京」という超大型のホスト・コンピュータがあり、そこであらゆる情報が処理される。「地方」はそれを利用するだけの端末にすぎない。
実際のコンピュータ・システムでは、一九七〇年代に流行したかたちである。当時は「グロシュの法則」というものが適用され、「情報処理は一ヶ所に集約して行った方が効率的」だったのだ。ところが、コンピュータで処理すべきしごとが増えると、この法則は必ずしも成り立たなくなった。大型のバスをタクシーとして利用するようなケースが増えたわけだ。
八〇年代に入ると、端末側で細かな処理をまかなうかたちが普及しはじめた。いわゆる分散処理である。これはしばしば大型コンピュータを核とした集中処理を否定するものと捉えられているが、むしろ、集中処理では実現できなかったシステムの拡張を実現したとみるべきだろう。集中システムの重要性にはなんらかわりがない。
現在の「東京」には、集中処理の過剰な負担がかかっているのではないか? 分散処理による負担の緩和を行わないと、システムの発展が抑えられるか、あるいは莫大なコストを負わなければならない。これまでのところ、システムの分散ではなく、地価高騰などコスト負担でしのいでいるとも考えられる。
以上に示した問題は、表現の違いはあってもこれまで指摘されたものだ。にもかかわらず、「分散処理」はかならずしもスムーズには進んでいない。ここで情報システムとの比較という立場から問題提起したいと思う。
八〇年代に分散処理システムが進んだ背景には、パソコンなどの小型コンピュータが飛躍的に進歩したこと、それに加え、表計算やワープロなど、大型コンピュータにはなかったソフトが開発されたという事情があった。つまり、「大型コンピュータの小型化」が進んだのではないのだ。まったく異なる役割をになったパソコンが登場してはじめて、すべての処理をかぶっていた中央のコンピュータは負担を減らすことができたのだ。現在最も進化したシステムといわれているものは、一つひとつの役割に特化したコンピュータが何台もネットワークに接続され、システム全体としての威力を高めている。ここにネットワーク社会を考えるうえでのヒント、そして解決すべき問題点が示唆されていると考えられる。
それでは、このような処理形態を実際の地域社会にあてはめるとどうなるか? 次回以降ではこのテーマについて、まずネットワーク社会の厳密な定義、そして意義について考えてみたい。とくに「溜まり場」の役割、「ヒトの吸引力」、さらには企業誘致の問題などもからめて考察してみたいと思う。