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「国会月報」1994年5月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

ネットワーク社会はどのように進むか?(4)

ネットワーク型社会は必ずしも理想郷を保証するものではない。多くのわずらわしさがあることも確かだ。にもかかわらず、現代日本ではネットワーク構造の社会が重要だと考えられる。そして問題は、とりもなおさず都市問題・過疎化問題と密接な関係があるのだ。

なぜ、ネットワーク社会か

 前回は、ネットワーク社会のわずらわしさを指摘した。また、個を尊重するためには、ある程度の冗長さもやむをえないことも示した。

 ネットワーク社会は、一種、対決にも似た緊張感のある人間関係に支えられる。システムへの「ただ乗り」は許されない。タテ社会に比べ、必ずしも「安楽な地」ではないのだ。にもかかわらず、現代の日本社会で「ネットワーク」が注目されるのはなぜか。その理由は、単なるムード、経済的な効果だけではないように思われる。私自身、ネットワーク社会のわずらわしさを指摘したものの、やはり今日において、このような社会構造が必要だと考えざるをえない。

 今回は、なぜ、ネットワーク構造の社会が必要なのかを述べてみたい。

価値観の均質化

 現代社会は社縁社会といわれている。学生時代までは学校が、職についてからは職場が「偶然の出会い」、つまり、社縁を結ぶ場を提供してきた。交流する相手といえば、学生時代までは同年代の友人や先輩・後輩、職についてからは、同じ組織に所属するひとか、同じ業界の人間に限られがちだ。これは、一種の社会的近親相姦なのではないか。「場」に拘束されることによって、同質さの交配が繰り返されている危険性があるのではないか。

 実際、多くの社会的な弊害があらわれているのと考えられる。たとえば、価値観の均質化だ。マスメディアは盛んにひとびとの「価値観の多様化」を伝えている。消費生活にしても、ファッションにしても、さまざまな価値観が交錯しているという。同じことは、マーケティングの関係者も主張することだ。

 しかし、その一方で、価値観の均質化を主張する社会学者が少なくない。例えば桜井哲夫氏は次のように述べている。

「多様化など進んでいるはずもない。それどころか、価値の均質化、一元化は以前にも増して進んでいる。(中略)それでは多様化とみえるものは何かといえば、……、約束事の世界の細分化が急速に進んでしまったということなのだ」(出典:「ことばを失った若者たち」桜井哲夫著)

 マスメディアの発達した現代社会では、われわれは多かれ少なかれ情報の受信専用者であることを強いられる。ところが、多用な価値観を持つということは、みずから情報を発信することにほかならない。しかし、現代社会では情報の生産者と消費者の区分けが進み、多くの人は供給者のつきつける選択肢に従っているのではないか。

 日本企業の特徴として、横並びの競争がある。確かにこの熾烈な競争は、企業の国際競争力をつけたかもしれない。自動車、家電・エレクトロニクス関係のメーカーでは、世界のトップ企業が日本に集中しているくらいだ。

 横並びの競争は、確かに「よいものを安く」という自由競争の恩恵を消費者にもたらしたかもしれない。しかし、それが激化したあまりに微妙な差異が強調され、モノやサービスの細分化が、消費者の認識以上に進んだ一面も否定できないのではないか。細分化をあおり、自らの身動きをとれなくした状態を、供給者が「価値観の多様化」として弁解しているのではないか。

 利用イメージを描けない限り、消費者は価値観を多様化しようがないのだ。膨大な選択肢を突きつけられたら、カタログ誌やカリスマ的なリーダーに従うしかないのではないか。このような状態は、煽動に弱い、付和雷同しやすいなど、社会的には不安定な状態といえるのではないか。

 もう一点、均質な社会のメンバーは、異質なメンバーを排除しがちだという。いわゆる「ヨソ者」扱いだ。しかし、交通の発達、経済のグローバル化によって、いやでもヨソ者と接する機会は増えている。それぞれの常識がぶつかりあうことも増えてくるだろう。異質なメンバーを社会にどう受け入れるかが問われるのだ。社会的近親相姦の繰り返された社会は、このヨソ者をスムーズに組み込めるのだろうか? われわれは、雑多な交流をすすめていかなければならないのだ。

都市の機能

 異質な人間どうしの交流は、都市のさまざまなたまり場でおこなわれていた。シリコン・バレーや札幌の情報産業は、まさにたまり場でのお互いに異質なひとどうし交流がネットワーク社会をきずいたものだった。都市の魅力は、新しい情報、新しい価値をうみだすダイナミズムが生きていることだ。今井賢一氏は「都市の最良の定義は、意味ある会話に最大の便宜を与えるように設計された場である」(ルイス・マンフォード)のことばを引用して、都市の存在意義をうったえた。

 都市がこのような機能を果たせるのは、常に人の接する場があり、ひとつの目的に拘束されない雑多な活動の場があるからだ。ところが、日本の都市はこの機能を失いつつあるのではないか。大都市圏への人口集中、本社機能の集中は、地価の上昇、住宅地と商業地との分離をもたらした。それによって、大都市圏では交流の場を保つことが難しくなっている。その一方で、地方の過疎化は、人口の流失、地場産業の弱体化などによって、人の交流というダイナミズムが損なわれている部分もある。 ネットワークを保てないという点で、大都市圏も地方も同じ問題を抱えていることになるのだ。

 これまでネットワーク社会の論議では、通信や交通のネットワークが一つの焦点になっていた。ところが、ひとのネットワークがきずくネットワーク社会では、本来、都市問題、街づくりの問題がその本質にあるのだ。

 次回では、ネットワーク社会と街づくりの関係を考えてみたい。


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