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「国会月報」1994年7月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
「職住」が分離されることは、ひとの交流が寸断される危険性がある。ネットワーク社会の形成では、いかに交流を保つかが重要だ。一方、リゾート開発には地方と都会の「利用しあい」という発想があった。しかし、ひとのネットワーク形成という点で、大きな見落としがあったのではないか。
「パリに住むのなら、ぜったいに街中のアパルトマンをさがすこと」
これは私がパリで住むところをさがしたとき、在パリ十年以上になるひとから受けたアドバイスだ。
パリは典型的な職住の混在環境だ。最近でこそ、オフィスはデファンス(アルシュ・サミットの開催されたところ)などの新開発地に集中しはじめた。それでも、おおくの事務所はパリ市内のごく普通のアパルトマンに点在する。住民のいるアパルトマンに商業施設がはいることは珍しくない。一階に映画館があり、そのとなりが自動車のショールーム、そんなアパルトマンにもちゃんと定住者がいるのだ。
メトロ終着駅付近になると、パリといえども、観光客におなじみの雰囲気とはがらりとかわる。高速道路の高架がかかり、まあたらしいビル、あるいは朽ちかけたアパルトマンや倉庫が点在する。中心部からメトロの終点に初めておりたひとは、どことなくはだあいのちがう「空気」に気づくだろう。それはおそらく、昼間ほど強く感じるにちがいない。
パリの中心部は、どの時間もたいていひとが行き来している。朝早い時間から夜中近くまで、ほとんどの時間帯、「にぎにぎしさ」を感じるのだ。そして、メトロ終点あたりの周辺部には、昼の時間ほどこの「にぎにぎしさ」がない。夜になれば、物騒な雰囲気さえする。結局、これは「どれだけのひとが活動しているか?」の違いにほかならない。
職住が混在していることは、時間帯に関係なくひとが活動していることを意味する。同じアパルトマンに事務所や住居が混在していれば、建物が無人になる時間帯が、まずないということだ。街の活気をもたらす要因はさまざまだろう。しかし、常に「ひと」がいることは、もっとも大きな要因と考えられる。
職住が混在していれば、とうぜん、通勤に拘束される時間も短くてすむ。パリの住民であれば、おそらく片道の通勤時間は三〇分以内だろう。東京のように、平均で一時間、場合によっては二時間、などという例はまれだ。
これによって、なにが失われるか? 通勤はひとりでおこなう行動だ。その拘束時間が長ければ長いほど、孤立する時間が多くなることになる。ひとと交流する時間が削られるということだ。
パリの場合はどうか?
職場から家まではすぐもどれるし、家から映画館やレストランなどへは、歩いて二、三分という場合が少なくない。友人どうしも、そう遠くないところに住んでいる。いとも簡単にひとが集まることができるのだ。さらに、パリの中心街であれば、カフェやレストラン、ブラスリーなど、ひとがたむろする場所にことかかない。ひとが集まる時間があり、集まる場所があるのだ。パリがクリエイティブな人間を引き寄せる理由は、ここにひとつあるように思われる。
東京ではすべてが正反対ではないだろうか? オフィスはオフィス街として集中し、その周辺に飲食街がひろがる。ひとが集まる時間が削られているうえ、あう場所さえもオフィス近辺に拘束されかねない。
日本の地方、とくに過疎地域とよばれるところはどうか?
地縁・血縁社会という、これはパリなどとは別の意味のネットワークが根付いているように思われる。しかし、子供の数の減少、地縁・血縁社会の基盤である農業の相対的な地位(経済に占める割合)が低下している以上、このネットワークは求心力を弱めていると考えざるをえない。社縁にもとづくネットワークをきずくだけの、「ひとの確保」ができないのだ。
このように、日本では都市でも地方でも、ネットワークをきずく基盤がますます失われていると考えられる。ならば、だれもが小さな世界の中に、孤立せざるをえなくなるのではないか。
バブル全盛のころ、リゾート・ブームがおきた。これはひとつの発想として、大都市と地方とが、おたがいに利用しあおうという試みだ。大都市は余暇時間をすごす場所として地方を利用し、地方は市場として大都市を利用する。これ自体は純粋な経済行為として、とくに非難されるべきものではない。
しかし、このリゾートによって残るものはなにか? 湯沢のリゾート・マンションに見られるように、地方にはひとのいない「住居」が残る。そして、利用者である都会人は、そこにほんの短期間、滞在するだけだ。せいぜいが何週間という「居住」なのだ。要するに、遊ぶ場所が都会か地方か、だけのことなのだ。
むろん、遊び場所、余暇を過ごす場所の重要さを否定するつもりはない。そのような空間が必要なことは事実だ。フランスでも、パリ市民ならノルマンジーというようにリゾート空間が存在する。しかし、リゾートという発想は、むしろネットワーク社会の形成に生かせるアイデアのように思われる。前回に紹介した北海道の「百年遅れの屯田兵の会」は、ひとつのヒントだ。都会の仕事を地方で行うひとを生み出すことが重要なのではないか。
ネットワーク社会の形成には、パリの例でみられるように、集まれる環境が必要だ。これにつけ加えれば、集まるための求心力が必要になる。なにを縁にしてひとが集まるかだ。この点、専門的・技術的な職業をもつものは、ひとを集める求心力が強い。仕事場所の自由度も大きい。
過疎対策・都市問題対策では、とかく「企業」の移動を視点に置きがちだ。現在、日本の就業構造を見ると、専門的・技術的職業の従事者は、就業人口の十一パーセントを占める。彼らの動きは少なからぬ影響を及ぼすものと考えられる。まさに都会と地方の接着剤の役割を果たせるのではないか? 独立専門職を核としたひとの集まる環境がどれだけ整うか、ここに今後の社会変化の鍵があるように思われる。