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ネットワーク・バトル・レポート(2)
「月刊ネットピア」(学習研究社/発行)1994年8月号掲載
江下雅之
ネットワーク・バトルでは、しばしば「袋叩き」が起きる。
陣営をまっぷたつに割ってはじまったはずの論戦が、いつのまにか《多数派》による《少数派》への集中砲火、あるいは《少数派》の孤軍奮闘という状況におちいってしまうのだ。同時に、争点そのものが《多数派》に誘導されていることがすくなくない。
これは、参加者による特殊事情というよりも、パソコン通信、とくに電子会議室のメディア特性によるところがおおきい。
電子会議室の情報発信機能は、マスメディアに共通する部分がある。そのマスメディアには、アジェンダ・セッティングという、争点を浮き彫りにさせる機能がある。メディアで強調される争点が世間から注目され、優先的に論じられる可能性が生じるのだ。
これは、メディアが単なる情報の管ではなく、ある目的をもった内容を伝える役割があるからだ。
電子会議室ではマスメディア以上に、聴衆を説得しようとの意図をもったメッセージが流される。
ここではかなり自由に、個人の主観的意見を述べることができる。誰がどのような目的で議論に参加してくるかも不透明だ。しかも、参加者のほとんどが、とくに意見発表の技術的な訓練を受けているわけではない。何がどのようなかたちで発表されるかが、まったく予想できないのだ。
実際、あるテーマを目的にした議論が、論者の増加によって混沌におちいることがすくなくない。この点、パソコン通信は精緻な議論ではなく、さまざまな視点をえるためのブレーン・ストーミングに適している、という評価にもつながっている。
公正な第三者がイニシアチブをとってコントロールをおこなわない限り、まとをしぼった議論は実現が困難であろう。
電子会議室での意見の発表は、個人の表現能力や参加機会に大きく依存している。発言慣れをしたひと、発言機会のおおいひとが、ある程度有利な立場にいるといえるだろう。
実際、バトルにおいては、《アクティブ多数派が争点を決める》可能性が高いのだ。「多く言うが勝ち」という構図だ。
いくつかのアンケートによると、電子会議室で実際に発言する会員の数は、利用者のせいぜい一割程度だという。しかし、会議室の「世論」は、その一割のなかの多数派で形成されるのだ。
電子会議室では争点が意図的方向に導かれやすいことを指摘した。そして、「見かけ上の多数派」についても、実はマスメディアの効果を増幅させた側面を見出すことができる。
マスメディアによる世論形成に関し、「沈黙のらせん理論」がある。この理論では、ふたつの大きな仮定が置かれている。
第一、「各個人が社会の意見分布を認識する能力がある」こと。そして第二、「自分の意見が《劣勢》と感じるときは公表をためらい、《優勢》と感じるときは積極的になる」ことだ。
この効果は、選挙におけるジャーナリズムの影響でしばしば見かけられる。とくに地滑り的勝利が起こる場合は、らせん効果の影響が顕著だといわれている。
電子会議室の世界では、発表された発言が意見分布を知る唯一の手がかりだ。
その結果、会議室に発表される意見分布がある分水嶺をこえるとき、《優勢》になった陣営は、加速的に優位さを増すことができることになる。
なにしろ、パソコン通信ではごく簡単に意見発表できる。コメントはコメントを呼び、賛成意見は賛成意見を呼ぶ。積極姿勢がまたたくまに増幅され、《劣勢》となったほうは、あっというまに追い込まれてしまうのだ。
以上の内容を読んで、「参加者は簡単に誘導されるほど単純ではない」と反論される方もいるだろう。大衆社会論に偏りすぎだとの批判もあるだろう。
しかし、パソコン通信のリアルタイム性や自由参加の原則は、冷静になる暇がなくなるほど、頻繁に、数多くのメッセージをまねく可能性を秘めている。論争の流れがきわめて激しい対立をまねきやすく、また、流動的な状況となりがちなのだ。
このような状況で、常に冷静でいられるだろうか?
高いモラルをたもとうと努力するネットワーカーは少なくない。しかし、ついつい傍観者の立場をとるか、積極、消極の違いはあるにせよ、《攻撃陣営》に加わりたくなる誘惑にかられることも多いのではないか? 誰だって、課金をはらってまで「袋叩き」にはあいたくないだろう。
《多数派》は、《少数派》が沈黙する、あるいは去ることで勝利に酔うかもしれない。が、ほんとうに相手を論破したか、それともただの「裸の王さま」なのかは、誰にもわからないのだ。