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「国会月報」1994年8月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之

情報民主主義への期待と課題(1)

現代社会の特徴のひとつは、情報の生産者と消費者との分離だ。しかしこれは、ある種ゆがんだ「権力」をもたらし、民主社会の歪みとなりつつある。その一方で、「情報民主主義」というあたらしい社会像が芽生えた。今回は情報民主主義の考えや意義を紹介する。

情報の発信という《権力》

 情報化社会ということばが誕生してから、すでに何十年もすぎている。個人・社会のあらゆる活動のなかで、情報の重要さがくりかえし指摘されている。しかし、最近の情勢をながめてみると、むしろ情報の供給が過剰になる一方だ。皮肉なことに、現代社会では、もはや情報を「捨てる」ことのほうが重要だとさえいえるだろう。郵政省の情報流通センサスに基づく試算によれば、一九七九年から八九年のあいだに、情報の総供給量は一・九二倍になった。その間、総消費量は一・一九倍となったにすぎない。われわれは、すでに情報をもてあましているのだ。

 情報の供給過多の弊害は、多くの社会学者が指摘している。情報に対する一種のニヒリズムの進行、価値観の均質化などの問題だ。この現象は、これまでのところ、マスメディアの発達がもたらしたといえるだろう。ここ三十年ほどの傾向として、とくにテレビの影響が顕著だ。

 マスメディアの発達が、現代社会において不可欠な要素であったことはいうまでもない。健全なマスコミュニケーションは、社会や政治のチェック機構という役割をになっている。アメリカや日本のような資本主義の発達した国では、マスメディアに対する依存がきわめて高い社会構造にもなっている。

 われわれは、多くの「世界」を知っているつもりになっている。遠く離れた国の民族紛争をはじめ、身近では発生しないような出来事まで、体験したかのような気分になることが可能だ。いずれも、マスメディアがもたらす情報のおかげだ。

 一方、マスメディアの効果のなかに、アジェンダ・セッティングとよばれるものがある。メディアによって強調されることがらが、あたかも現実であるかのように認知されるということだ。メディア学者の指摘によれば、マスメディアが強調する意見が、あたかも世の中の多数意見であるかのような「錯覚」を与える可能性もあるのだ。

 このような状況から、マスメディアがひとつの権力とみなされるのも当然だろう。同時にこれは、自分の意見を不特定多数に発信することが「権力」でもあることを意味する。現代の日本社会は、情報の供給者と需要者の区分けが明確になされている。そのため、情報を発信する立場が、一種の「特権階級」にさえなっているといえるだろう。

「第三の政府」

 八〇年代の前半から、アメリカでは「ネットワーキング」と呼ばれるボランティア活動がさかんになった。これは、電話や手紙などのパーソナル・メディアを利用した、人的ネットワークによる市民活動だ。このなかで、参加者はみな等しい「発言権」をもっている。そこのような活動が、あたらしい民主主義の流れとして、「第三の政府」とまでみなされるほどの影響力をもちつつあるという。「情報民主主義」についてはさまざまな要件がある。このネットワーキング活動にみられる「参加者がみな、対等の発言権をもつ」ことが、もっとも本質的な要件であろう。

 これまでに紹介したパソコン通信などの情報通信ネットワークも、ひとつには「情報民主主義の道具」という側面がある。実際にアメリカの通信サービスでは、このような意識にもとづいた活動が活発であるという。 「情報民主主義」で注目されるべき点は、パーソナル・コミュニケーションが活動の中心になっていることだ。それがゆえに、マス・コミュニケーションが支える「民主主義」に対する、建設的な矯正手段となりうるのだ。すくなくとも「情報民主主義」では、個人の発言権という「権力」が、平等に配分されている。これは民主主義の根幹を支えるものだ。

日本で根付くための課題

 マス・メディア依存度の高い点で、日本の事情もアメリカと変わりがない。ならば、日本社会でも「情報民主主義」のような発想が必要なのではないか? 民主社会を目指すべき方向として認めるなら、たしかに「情報民主主義」は求めるべき姿のひとつといえるだろう。しかし、現実の日本社会では、それを妨げる多くの要因がある。

 もともと「ネットワーキング」という活動を背景にしていることから、この考えでは、地縁や血縁を越えた社会活動が前提になっている。ところが、日本ではカイシャ社会という強固なタテ型の社会構造が根付いている。タテ型の社会にはさまざまな利点があるのも確かだ。しかし、「個人の自由な活動」をはばむ一面があるのも事実だ。

 たとえば、発言権の問題がある。仮にある個人が、ネットワーキング活動に参加したとしよう。ところが、タテ社会の特徴として、その個人には常に所属タテ社会への全人格の参加が求められる。別の社会に加わっても、その根っ子を断ち切ることができないのだ。必然的に、「発言権」はネットワーキング活動と所属するタテ社会との関係に制約される。

 例をあげれば、ある個人がエコロジー活動に参加するとしよう。かりに参加者が、その活動とは利害の対立する企業の社員であるとしよう。エコロジー活動において、その参加者はどこまで自分の会社の立場から離れた発言ができるだろうか? 少なくとも、特定の「場」への従属が断ち切れない限り、「情報民主主義」は成立しない。パソコン通信の世界でしばしばその成立が誇られるものの、それは「匿名性」を用いたかりそめの姿でしかない。

 実はもうひとつ、日本社会にこれが根付くための課題がある。そもそも情報の発信という行為について、日本の教育制度はおろそかにしていないか? コミュニケーションとは、本来、説得の技術とされている。この技術の習得が、これまで軽視されていたのではないか?

 次回はこの切り口から、「情報民主主義」実現の課題を検討してみたい。


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