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「国会月報」1994年11月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
情報化の評価をおこなうとき、ついついその機能面での可能性に限定しがちだ。現代社会では、すでにさまざまな場面で情報化が浸透し、一見、これまでの文化的な伝統を破壊しつつあるゆな危惧さえ抱かせる。しかし、これはあらたな適応に向けた転換期とみなすべきだろう。
気がついたら、生活のいたるところが情報化されていた——この領域ではアメリカや日本に遅れをとっているとわれるフランスに住んでいてさえも、最近、素朴に感じることだ。
先日、知り合いの小説家から、取材でフランスを旅行するので、ホテルを調べてほしいという依頼が電子メールで届いた。さっそくミニテル端末を使い、パリのホテルをいくつか検索する。希望にあったところの電話とファックスの番号を控え、即座に電子メールで返答した。
返事を送ったとき、別の知人からまた電子メールが届いていた。彼女は仏文学の翻訳家で、先月、十九世紀に出版された書籍の購入を依頼してきたのだ。その本を探すために、近くの小さな古書店に問い合わせてみた。古書店の店主は、依頼物件を眺めたあと端末を叩き、別の書店に在庫があることをその場で知らせてくれた。彼女からの電子メールは、支払方法についての確認だった。むろん、クレジット・カードがあれば、パリの古書店でも注文はできる。荷物は国際宅急便を使えば、四十八時間後には東京に届くだろう。
以上のことは、日々ごく身近で発生していることだ。しかし、十年前であったら、ほとんどが夢物語であったことも事実だろう。その十年前にあたる時代は、ちょうどニューメディアやOAがおおいに議論されたときだった。たしかに当時期待されたニューメディアは、必ずしも普及はしなかった。それでも、通信網のデジタル化、衛星放送の普及が進んだ。企業にはパソコンやファクシミリが浸透し、これらは一般の家庭にまで広がりつつある。結果として、いつのまにか情報化が、われわれを取り巻いているのだ。
こと生活の機能面に限っていえば、われわれは情報化によって多くの恩恵を受けている。たとえば深夜、急になにか必要なものがあっても、たいていはコンビニエンス・ストアで買うことができる。このような便利さを成立させているのは、POS(Point of Sale)と呼ばれるシステムだ。レジを入力端末とするこの販売管理システムによって、コンビニエンス・ストアの狭い空間に、何千種類もの商品を置くことができるのだ。
ニューメディア・ブーム当時、「情報化の光と影」という問題がひとつのテーマになった。ごくおおざっぱにまとめれば、情報化による経済的な恩恵をえられるひと、えられないひととで、なんらかの不平等が生じるということだ。リテラシーやインフラの問題は、その典型的な課題であった。しかし、POSの例でもあきらかなように、企業の情報化は競争原理に基づいて急速に進んだ。その過程で、多くのひとが情報システムの利用者となり、受益者をうみだしていった。
われわれはこの十年で、情報化をごく自然に生活スタイルへと組み込んできたのだ。いまや、大多数のひとが受益者であり、十年前に指摘された「影」は、もはや杞憂とさえいえるくらいだ。しかし、この節の冒頭であえて「機能面に限れば」と限定したことに注目いただきたい。
いろいろな時代の「文化」というものを考えたとき、その前提のひとつに、テクノロジーをあげることができる。たとえば、こんにちの文学は、印刷技術なしには成立しえなかったといえるだろう。
いま、われわれが長年慣れ親しんできた「文化」の前提が、この急激な情報化によって、方向転換を迫られているのではないか。この転換において、失われるものもあるだろう。その反対に、あたらしい文化の芽が育つこともあるだろう。その典型的な現象を、出版文化に見ることができる。
小説家の水城雄氏は、執筆活動のかたわら、積極的にデジタル・テキストの普及を進めている。その動機として、活字商業出版の危機を訴えている。一見華やかな新書ノベルスであっても、その実態はみずからの首を絞めているような状況であるというのだ。具体的には、新書に代表される書籍の異様に早い店頭回転率を指摘している。たとえば、新刊ノベルスは初版で一、二万部だけ刷られ、一ヶ月ほど店頭に置かれる。そして、首都圏の販売状況のいい一部のタイトルをのぞき、わずか一ヶ月で返本されるそうだ。いいかえれば、ほとんどの本がたった一ヶ月の寿命を持つに過ぎない、という状況になっているというのだ。
むろん、そうなるだけのマーケットの性格もあるだろう。しかし、販売状況を迅速に把握できるのは、情報システムが発達したおかげだ。一見すると消費者のニーズをすばやく把握できる道具が、じつはマーケットを異様なまでにせわしないものとしている側面もあるのだ。
せわしなくなったマーケットは、鎮静化する必要があるのか? そのためには、POSを捨てなければいけないのか?
それもひとつの考え方であろう。しかし、われわれはたしかにPOSの恩恵も受けているのだ。一度享受した恩恵を、われわれはふたたび手放すことができるだろうか。
もう一度、文化はその時代のテクノロジーをひとつの前提とする、ということを考えてみたい。情報化がこれまでの出版文化にひずみを生じさせているのなら、情報化を前提にした出版文化があるのではないか? 現在はあらたな適応に向けた転換期と位置づけられるのではないか? 事実、水城氏は「電脳草子」という計画を進めている。
次回以降はこの「電脳草子」計画や欧米で進められているグーテンベルグ計画を紹介し、情報化を前提にした「文化」の可能性を述べたいと思う。そして、その芽生えにともない、現行の体制のどこに無理が生じ、あるいはあらたな対応が迫られているのかを指摘したい。