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Degustation gratuite ![14]電子カメラがほしかった
「月刊Online Today Japan」(ニフティ発行)1995年4月号掲載
江下雅之

「やっぱり助産婦さんに連絡するわ」
 と、カミさんが苦しそうにうったえたのは、朝の五時半ごろだった。
 この日、ぼくはいつものとおり夜中に仕事、早朝に就寝という状態だった。そろそろ寝ようかなというときに、仕事場兼仮眠場に彼女がはいってきた……といっても、アパートは二部屋なんだけど。 「そうか、じゃあメシ食ってくるな」
 とっさに出たひとことがこれだった。いまから病院にいって分娩となると、なにも食っている時間がないと思ったのだ。台所で前日のあまりめしをかっくらう。
 フランスの医療制度だと、出産には主治医と助産婦さん、それに麻酔担当の医師が立ち会うことになっている。すべて無痛分娩だ。
「月曜にもう生んじゃいましょうね」
 と、最後の定期検診で助産婦さんからはといわれていた。フランス式にかぞえる予定日よりもすこしはやかったが、子供がもうすっかり育っていたのだそうだ。 「月曜がいちばん都合がいいのよね。火曜だとはずせない会議があるし」
 主治医の先生も月曜が空いているとのこと。関係者の都合からは、この日がベストだというので、われわれもなんとなくそんな気でいた。
 六時ごろ、カミが助産婦さんに電話をかけた。
「日曜の朝からもうしわけありません。陣痛が始まって、痛みの周期が……」
 助産婦さんの返事が受話器からもれてくる。「C'est pas grave.(大丈夫よ!)」を連発していた。あとで聞いたのだが、このときべつの出産を終えて、帰ってきたばかりだったようだ。わずか一時間の睡眠でつぎにのぞむこととなったのだった。
 クリニックには七時半から八時半のあいだに来るよう指示される。衣類など必要な荷物はすでにととのえてあった。あとはタクシーに乗っていくだけの状態だった。それまでのあいだ、カミさんは気分転換に雑誌を読みはじめ、ぼくはありあわせの食事のあと、すこし横になった。
 ふと、月曜までにこの原稿ともう一本、べつの締め切りがあることを思い出す。あわてて鞄に PowerBook と作業用ノートをしまう。長期戦となったら、クリニックで持ち込み仕事だなあ、なんてことを考えたのだ。
 クリニックがあるのはパリの高級住宅地のなかにある。主治医はデュイエブ先生というフランス人だ。おそらくパリ在住の日本人妊婦ほとんどがお世話になっているだろう。奥さんが日本人で、先生自身が日本語にたんのうだからだ。そのクリニックはデュイエブ先生と提携しているところである。これもフランスの医療制度の特徴で、診察、検査、出産や手術などがすべて分業化されている。主治医は診察中心なので、出産は医師の診療所(キャビネ)ではおこなわない。
 電話でラジオ・タクシーをよぶ。朝の七時一五分になっていたが、まだ夜明けよりだいぶまえなので真っ暗だ。クリニックまではあっというまに到着してしまった。
 助産婦さんから連絡がはいっていたらしく、作業は当直の女医さんが手際よくおこなってくれた。カミさんはTシャツに着替え、そうそうに分娩台のうえに乗せられる。ぼくは白衣をはおらされ、クツにしろいカバーをつけるよう指示された。
 じつはこのとき「クツに」というひとことを聞き漏らしてしまったので、てっきり頭になにかをかぶるのだと思いこんでしまった。ちいさな白いナイトキャップみたいなものを、ひっしにかぶろうとしながら分娩室に向かうと、女医さんから「それはクツにするのよ」といわれてしまう。目は笑っていなかったけど、きっとあきれていたにちがいない。
 八時一四分に点滴がはじまる。十五分後、麻酔の先生があらわれ、アレルギーの有無などを質問する。数分後、カミさんを横にさせて麻酔をはじめる。
 このときぼくは、作業用のノートを持ち込んでいた。状況をなるべく記録に残しておこうと思い、時計をみながらメモをとりはじめた。これが小説家の水城雄さんなら、きっと 100LX をぷちぷちやりだしたことであろう。残念ながらぼくはこの便利な機械をまだ持っていなかったのだ。
「あとは子宮口がひらくまでしばらくお休みね」
 麻酔の先生がそういって分娩室から出ていった。その機会に、ぼくは電話をかけにいく。カミさんの母親がパリまできていたからだ。
 分娩室にもどる。収縮の状況をプロットするグラフは、まだかなりゆったりとした周期だった。出産そのものは午後二時ぐらいだろうということなので、あとは助産婦さんが到着するまで様子をみているしかない。
 急に睡魔がおそってくる。気分転換にやりかけの仕事を再開した。月曜は OLTJ 誌の原稿以外に、もう一本、べつの締め切りがあったのだ。分娩室で仕事というのもひんしゅくもんかな、とは思ったが、新米でもお父ちゃんは稼がにゃならんのだ、と自分にいいきかせる。
 カミさんのほうもまだそれほど苦しそうではなかったので、適当にはなしを続けながらノートにシナプスをまとめたり、推敲用のプリントに赤を入れたりする。が、いつのまにか記憶がぷっつりと途絶える。約三〇分後に目をひらくと、ちょうど助産婦さんがはいってくるところだった。
「一日はやくなっちゃったわね。でも陣痛が自然にはじまってよかったわよ」
 助産婦のビダルさんがややしわがれた声ではなしはじめる。こういうときは、年輩の助産婦さんのほうが安心感をあたえてくれる。プロッタのグラフや血圧の推移をてぎわよくながめながら、
「Tout va bien!(万事、順調よ)」
 と励ましてくれた。こんな調子がしばしつづいた。
 午後二時ごろ、ビダルさんが「もう子宮口がひらいている」と告げる。そそくさと分娩の体制をととのえはじめた。子供の体重や身長をはかる場所をもうけたり、台のしたに布をひいたりと。
 いよいよ、という雰囲気になる。ビダルさんがいきみの方法を説明する。ここだけ日本語まじりだった。
「イキ、すう。止める。力いれるね。caca[ウンチ]とおなじ」
 さあやって、という合図がだされる。カミさんのこめかみに血管が浮かぶ。横からひたいの汗をぬぐった。顔面がみるまに紅潮してくる。尻がすこし浮いてしまうと、助産婦さんから「Non!」ということばが飛んでくる。
 麻酔のために、いきむ感覚がうまくつかめないらしい。三度ほどやってみたが、子供はおりてこないということだった。
 ようやくデュイエブ先生がやってくる。助産婦さんに説明をうけてから、カミさんを診察しはじめる。とたんに、麻酔担当医師をまじえて議論がはじまる。なにか意見が食い違っているようだ。
 先生は帝王切開を主張しているようだった。それに対し、助産婦さんと麻酔担当は下から出せると反論する。決定権限はデュイエブ先生が持っているけれども、ベテランのビダルさんも自身をもって主張している。
「いきみ慣れていないだけよ」
 しかし、デュイエブ先生は子供がぜんぜんおりてこないと主張している。ビダルさんもそれは承知しているのだが、初産婦の不慣れだと考えているのだ。
「子供の頭がだいぶ固いね。帝王切開のほうがいいよ」
 と、先生が説明をはじめた。ビダルさんが分娩室をかたづけはじめる。どうやら結論がでたようだ。カミさんが不安げな表情をうかべる。
 麻酔の先生がなお反論する。ビダルさんも片づけながらその意見を指示していた。
「世論はここでの分娩を支持しているよ」
 と彼がいうと、デュイエブ先生も、もう一度だけやってみることに同意した。
 そのころ、となりの分娩室から元気のいい泣き声がきこえてくる。おとなりさんのほうが分娩台に乗ったのはあとだったが、どうやらスムーズな出産だったらしい。きっと待合い室にいるカミさんの母親は、これで生まれたと思っただろう……。当の本人は、ストレッチャーに乗せられるところだった。
「二十分ぐらいでおわるよ」
 と、デュイエブ先生からいわれる。手術室はひとつうえの階だ。ぼくは義母といっしょに待合い室で待機することになった。
 午後三時半ごろ、手術室のならぶ階の待合い場にぼくだけ移動する。なんどか出入りしていた担当の看護婦さんが、あと五分ほど、とおしえてくれたのだ。
 午後三時三八分、廊下のむこうから元気のいい泣き声がきこえてきた。
「Petite fille!(お嬢ちゃんだよ)」
 と言いながら、麻酔の先生が最初に出てきた。おもわずガッツポーズをとる。二分後、看護婦さんが赤ん坊をつれてきた。産褥のよごれをおとす場所が、分娩室とおなじ階にあるからだ。
 いきなり娘を手渡される。新米のオヤジはうろたえてしまうではないか。ほんとうにうまれたての赤ん坊だった。あちこちにいろいろなカスがまだついている。手足が象牙色をしていた。目からは血の涙にようなものがこぼれてた。本当にたったいま出てきたばかり、そんな余韻をまだからだのあちこちに残したままだった。
 帝王切開にはなったけれども、母子ともにいっさい問題なし。女の子だということは、エコグラフをとったときにわかっていた。すぐに「明日香」という名前にきめた。おなかにいたころから、さんざんよびかけていたので、なんとなくもう自分の名前を知っているような雰囲気もあった。カミさんが「明日香ちゃん」と呼びかけると、微妙に反応をかえすようなうごきがある。
 義母は産褥のよごれもおとさないうににだかせてもらえるとは思わなかった、とおどろいていた。エレベータ前の待合い場で、ぼくがいちどゆだねたのだ。しかも、そのとき生まれたばかりの明日香は、すがるように両手をさしのべていた。この仕草が義母を感動させたようだ。
 クリニックを出たのは午後七時すぎだった。約十二時間、なにも食べずにいたことを思い出した。メトロに乗ってかえる気力がなかったので、タクシーをひろう。クリニックはエッフェル塔のすぐちかくだった。ライトアップされたパリのシンボルは、霧雨のために上部がけむっていた。
 となりのなじみのサンドウィッチ屋さんで食料をかう。娘が生まれたばかりだ、というと大げさな表情で祝ってくれた。
 部屋にもどってから、横浜の自宅や、出産を気にかけてくれていた友人たちに電話をする。どうも男親はこういうことで実感をおぼえるしかないようだ。仮眠後、ニフティにアクセスすると、電話をかけた友人がパティオで出産のことを知らせてくれていた。さっそく何人かがお祝いのコメントをつけてくれていた。
「電子スチール・カメラがあればな……」
 と、ふと思ってしまった。そうすれば、生まれた直後の娘を、生まれた直後に写真入りで知らせることができたのに。


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