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「国会月報」1995年5月号(新日本法規出版)掲載
江下雅之
コンピュータ・ネットワークは、けっしてマスメディアではない。ではないが、マスにうったえる影響力をもちうることもたしかだ。このあたりの区別をはっきりさせないと、インターネットやパソコン通信に対する期待が失望にかわりかねないのだ。
ニューメディア・ブーム真っ盛りのころ、マスメディアはあたかもその使命を終えたかの論調があった。たとえばビデオ・パッケージや双方向CATVが充実すれば、地上波のテレビはもはや不要だとする主張があった。また、新聞は読者がみずから好きな記事を選択できるような、オンライン・データベースに代替されるだろう、という予測もあったくらいだ。これらの背景に、より高度なメディアとは、受け手の細かなニーズに応えられること、言い換えれば、小さなセグメントを対象に情報やサービスを提供できること、という発想があったのではないか。その点、マスメディアはたしかに最大公約数的なニーズしか満たせないのかもしれない。
しかし、大衆におよぼす影響力は、マスを対象にしてはじめて成立するのだ。テレビ番組や映画にそそぎ込まれる資金と、ビデオとして販売されるパッケージのとでは、一桁か二桁、場合によっては三桁以上の差がある。むろん、内容はかならずしも投入資金に比例するとは限らないが、この現実は直視しておく必要があるだろう。ビデオ・パッケージでは、最初から少ない資金で製作できるものしか扱えない、ということなのだ。
テレビの番組は、いちどに数千万人、場合によっては数億人もの目にさらされうる。それがゆえに宣伝効果が認められ、スポンサーから巨額の資金を引き出すことができるのだ。また、東欧革命やアメリカの大統領選挙に見られたように、政治的な影響力も無視できない。ところが、ビデオ・パッケージは年間に数万本売れればヒット作である。聴衆に対する訴求力という点で、テレビにはまったく太刀打ちできないのだ。
いくらコンピュータ・ネットワークが発達したところで、マスメディアがもたらすおおきなうねりのような力は持ち得ない。最近、インターネットを広報や宣伝媒体に用いる企業が増えているけれども、この点を認識しなければ、間違いなく効果を読み違えることだろう。
一方、それぞれのメディアは、たしかに競合関係にある。が、同時に補完関係にもある点に注意が必要だ。淘汰されたメディアもある。電報のように、現在では儀礼的な機能しかはたさなくなったメディアもある。しかし、基本的にメディアは棲み分けがすすむ傾向にあるようだ。この視点からも、コンピュータ・ネットワークの位置づけ、とくにマスメディアとの違いを考える必要があろう。
前回までの連載で、インターネットがサブカルチャーやカウンター・カルチャーの舞台になっていることを指摘した。また、スモール・ビジネスの手段として、おおきな活動の余地があることを示した。これらはいずれも「マス」が対象ではなく、むしろ特定の層に的を絞った活動である。この点に、コンピュータ・ネットワークのひとつの特徴と同時に制約があるように考えられる。
ネットワーク利用者の数が増えれば、マスメディアとなるのだろうか? 市場が拡大していけば、既存メディア並みの製作資金を投入したソフトウェアが流通するのだろうか?
答えは「ノー」であろう。純粋に経済的・技術的な見地からすれば、テレビ番組をコンピュータ・ネットワークで提供することは可能だ。場合によっては地上波を代替することも不可能ではないだろう。しかし、これは単にマスメディアの用いる「管」がかわったにすぎない。コミュニケーションの構造として、なんら本質的な変化はないのだ。
コンピュータ・ネットワークを単に既存メディアの技術革新にとどめないためには、従来のメディアの論理から脱却することが必要だ。
パソコン通信やインターネットなどは、いわゆるミニコミ活動に適していることがこれまで判明している。マスメディアはたしかに巨大な影響力を行使し、ビッグマネーを動かす。逆にいえば、それだけの規模を期待させるものでなければ、マスメディアには乗れないのだ。この点、個人の参加を前提にしたネットワークは、数百人規模の活動に手頃なメディアなのだ。これはひとつの可能性であろう。とくにネットワークの発展が海外まで展開しているいま、数百人といっても、その可能性はじつに多様だ。
しかし、影響力ということを考えた場合、もうひと工夫必要だ。阪神大震災におけるパソコン通信の役割を見る限り、コンピュータ・ネットワークは他のメディアや活動と組み合わされたときに、極めておおきな威力を発揮する。反対に、ネットワーク内部でとどまっているものは、仲良しクラブの域を出ないものがおおいようだ。
風呂の情報を集めたひとがネットワークに伝えたとする。それが被災者のもとへと届かなければ意味がない。単にネットワーク上を情報が流れるだけではだめなのだ。コミュニティのなかには、かならず「門番」役をはたすひとがいる。外界の話題を伝えたり、内部の情報を外に発信するひとのことだ。一種のオピニオン・リーダーといってもいいだろう。このような影響力のあるひとを組織することが、情報スーパーハイウェイ時代の課題であろう。
実際、現在インターネットでいちばん注目されているグループは、中国の反体制活動家といわれている。アメリカやヨーロッパの中国人が、本国政府の批判をネットワークで展開しているのだ。なんらかの専門的なテーマをかかげ、それに応じたコア・グループを形成する。さらに各グループの接触もうながし、活動の多角化をはかるネットワーク上なら困難な点は少ない。接触点をいくつも持ったグループ・コミュニケーションが保たれることで、影響力が共鳴するのだ。これが「門番」を経て実社会に伝われば、マスメディア以上の影響力をおよぼすだろう。