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業界無常識論[6]
「月刊パソコン倶楽部」(技術評論社/発行)1997年12月号掲載
江下雅之

コンテンツのお値段

パパラッチは辞められない?

 故ダイアナ妃の事故で有名になった「パパラッチ」はそんなに儲かる仕事なのだろうか? ダイアナとアルファイドのキス写真を盗撮したイタリア人のパパラッツォ(パパラッチの単数形)Mario Brennaの写真は、複数のタブロイド誌・大衆誌に売れ、売上の合計で約2〜6億円にものぼったという。イギリスのタブロイド紙 Sunday Mirror はこの写真の独占掲載権に約5,000万円を支払ったが、掲載によって販売部数が25万部伸びたという。Sun、Daily Mailも後に約2,000万円で掲載権を買ったというし、Paris Match も約3,600万円で買ったという情報がある。スキャンダル写真は販売部数を伸ばし、部数を伸ばす期待が大きければ報酬も気前良く出されるということだ。
 スキャンダラスな写真には何千万円もの値がつけられるけれども、その一方で、通常の報道写真は数万円がギャラの相場だ。フランスのフォトエージェントに写真を売って食っているフリーカメラマンの月収は、じつは駆け出しサラリーマンと大差がない。有名なフォトジャーナリストKarim Daherが南レバノンで96年4月18日に撮影した写真は、イスラエルに爆撃された模様を追跡したものだが、危険すぎて地元の人間が案内を拒んだというような困難な状況での決死的撮影にもかかわらず、写真の販売額は約330万円にすぎなかった。
 夏の南仏はパパラッチが狙う格好の舞台となっている。10年前、ヨハネ・パウロ2世がプールで歩いている姿の盗撮写真は約1.1億円で、ダイアナ妃の義妹Sarah Fergusonがサントロペで恋人と遊んでいる写真には約2.4億円の値がつけられた。戦場で命を張るよりも盗撮の方が割のいい商売なのである。
 むろん、カメラマンのすべてがカネのためだけに活動しているわけではないし、芸術性や歴史的な価値などは貨幣換算ができないかもしれない。また、パパラッチの盗撮にしてもヘリコプターのチャーターや超一流ホテルの借り切りなど、かなり元手がかかることも事実である。が、カメラマンというお仕事の収益性だけを考えれば、パパラッチの方が効率的といえるだろうし、だからこそパパラッチはなくならないわけだ。 ※ 写真の価格などに関する情報は、フランスの月刊誌Le Point、L'Express、le nouvel Observateur、L'Evenement du Judi等の報道によるもの。

筋肉労働とお布施理論

 写真に限らず(広い意味での)ソフトウェアの値段はどういうメカニズムで決定するかがよくわかっていない。原価計算から積み上げられて決められるわけでもない。そのことは逆に、ソフトウェアを創出する人への報酬を決定するメカニズムがよくわからない、ということでもあるのだ。モノであっても最近はソフトウェアが「原価」に占める割合が高くなっており、その典型ともいえるブランド品の価格(逆にいえばそれを作る職人の報酬)などは単純な原価計算では説明できない。
 賃金は労働市場での交換価値で決まる、といのが経済学の教科書的な説明だ。その人の技能が高ければ交換価値は高い。もっとも、技能に応じた時給と拘束時間に基づく計算は基本的に筋肉労働の発想であり、ホワイトカラーには適用しづらい。とりわけ管理職ともなるとなにが決定要因になっているのかがわからない。実際にホワイトカラーの生産性は社団法人の日本能率協会が昭和57年に大々的な研究レポートを作成したが、消費の対象が成熟化・多様化するにつれて、なにが価格を決めるのか、なにが賃金を決めるのかがわからなくなってきているのだ。
 こうした状況のなかで、筋肉労働の発想とはまったく異なる価格決定メカニズムとして提出されたのが、梅棹忠夫氏の「お布施理論」である(『情報の文明学』)。梅棹氏によれば、お布施の額はお坊さんの格と檀家の格によって決定するという。お坊さん・檀家双方の格が高ければお布施はもっとも高くなる、というわけだ。格の高いお坊さんであっても檀家の格が低ければお布施の額も低めに設定されるが、逆に駆け出し坊主であっても檀家の格式が高ければそこそこ高いお布施が包まれるというのである。そして情報の価格にもこのメカニズムが作用するというのだ。ブランド品の価格決定メカニズムもこれに近い。
 実際にコンサルタントや広告の業界ではお布施理論にもとづく価格設定が通用しているように思われる。コンサルタント料が高ければ調査レポートの頁が多いというわけではないし(多少、そういう傾向もあるが)、広告のコピーに至っては、一字につきいくらという単価設定などは土台意味がない。かといって、コンサルタントや宣伝が実際にどれだけの利益をもたらすかは、ほとんど計量不能といってよい。それでもときには億単位のカネが授受される不気味な世界なのである。泡沫の代表と思われがちなマネーディーリングなどは、まだ成功報酬という側面がある分、報酬のメカニズムはわかりやすい。

出版物のお値段

 わからないといえば、出版業界の報酬もメカニズムがはっきりしない世界である。そもそも本はモノなのだろうか、コンテンツなのだろうか。コンテンツに決まっていると考えるあなた。グーテンベルグの時代、聖書の価格がおなじ重さの銀と同程度だったということをご存じか。現代ならせいぜいコーヒー二杯分である。だからといって、この間に聖書の価値が暴落したという話は聞かない。要するに本の価格は器の値段というべきものなのだ。それを考えれば、本はコンテンツではなくてインクの染みのついた紙を束ねたモノと見なすべきなのである。
 本を書いたときの著者への報酬は一般に印税である。印税の額はたいてい本の価格の一定比率分(10パーセントという場合が多い)に印刷部数を掛けた額だ。出版社によっては印刷部数ではなく実売部数ということもあるし、部数に関係なくギャラが支払われる場合もある。が、一般には本というモノの生産量が報酬を決めていると考えてよい。
 しかし、これは考えてみれば変な話である。たとえば2,000円の本が10,000部印刷されたとしよう。印税率を10パーセントとすれば、著者には200万円の報酬が入る。ところがこの本が文庫化され、600円で15,000部印刷されたとすると報酬は90万円にしかならない。コンテンツはまったくおなじであるにもかかわらず、器の値段が違うだけで報酬がここまで変わってきてしまうのだ。これがオンライン出版となると、器そのものが激変するのである。いったいなにがオンラインの「本」の値段を決めることになるのだろう?

「消費のための消費」社会でのお値段

 出版物にしても写真にしても、価格決定メカニズムはとにかくわからないとしかいいようがない。企業対企業あるいは個人対個人の関係であれば「お布施理論」で説明のつくメカニズムもある。マネーディーラーの成功報酬もある面では明確だ。ところが市場で消費されるコンテンツとなると、実際のところ、供給側と需要側で腹をさぐりあうしかないような状況だ。ゲームソフトなどは典型だろう。ROMやCD-ROMの原価などはタカが知れているし、人気ゲームの価格がプログラマの人件費で原価計算されているわけではない(むろん結果からの逆算は可能だが)。
 なにが価格を決めているのかがわからないという状況は、現代ニッポンやアメリカのように、本格的な消費社会になるとますますアヤしくそして不可解になる。価格をそれなりに決定してきた需要自体がゆらいでいるのだから。
 消費社会の特徴は、消費のための消費である。そこではニーズにもとづいた消費がおこなわれるのではない。マーケットアナリストは「ニーズの多様化」を飽きもせずに主張するが、実際は微妙な差異が短いサイクルで入れ替わっているだけなのではないか。市場が成熟したら、売る方にとっては製品のサイクルを短くするしか生き残る方法はないのだから。いかに「飽きさせるか」が重要になるわけである。
 自動車市場を考えてみるがいい。モデルチェンジによって買い換えを促すという商法はGMが始めたといわれるが、いまのニッポンでは自動車をたいして必要としない人たちが、ささいな差異にあおられて必要のない買い換えを続けることで自動車市場を支えている。それとおなじ状況になりつつあるのがパソコンのハードおよびソフトの世界だ。本当に意味のあるモデルチェンジやバージョンアップが最近どれだけあるというのか。マイクロソフトが利益を出せるのも、つまるところ消費者がWindowsやWordをバージョンアップし続けてくれるからではないのか。
 話があちこちに飛んでしまったが、要するに、世の中の「価格」はなにが決定しているのかがもはやわからない状態であり、消費者の側は目先のささいな差異をニーズと錯覚しがちである、ということだ。とくに広い意味でのソフトウェアの比重が高い分野ほどその傾向が顕著であり、その最前線に出つつあるのがパソコンの世界なのだ。パソコン消費者よ、そろそろ振り回されるのはやめようではないか。


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