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都市化・市場経済化の延長にあるネットワーク社会の功罪
月刊刑政(財団法人矯正協会/発行)2001年8月号pp.36-41掲載
江下雅之
さきごろ小泉「変人」首相が誕生しました。自民党総裁選挙での地滑り的勝利について、マスコミ論説の多くは、自民党員が閉塞感の打破を願った結果と分析しています。この「閉塞感」というキーワードは、政治の世界にかぎらず、個人消費、企業活動をはじめ、多くの分野で近年とみに語られていることばでもあります。インターネットを基盤にした交流、いわゆる「ネットワーク社会」もまた、伝統的な社会形態に対する一種の閉塞感を打破する人間関係のありかたを願う気持ちが大きな期待なり注目をもたらすに至ったと考えていいでしょう。
それでは、なにがいったい伝統的な社会形態なのか、どこに閉塞感があるのか、ネットワーク社会はどこをどう打破したのか。こうした疑問点にこたえるまえに、いわゆるネットワーク社会には二つのまったく異なる意味あいがあり、多くの議論ではそれらをまぜこぜにしている点を指摘しなくてはいけません。
まず第一に、個々人が対等の関係でヨコのつながりを広げる交流を、ネットワーク社会と呼ぶことがあります。これは厳密には「ヨコ型のネットワーク構造を持つ社会」と表現すべき形態です。
一九六〇年代に中根千枝という社会人類学者が『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)という本を刊行しました。いまなお売れ続けているロングセラーですが、同書で指摘されている重要な内容は、集団構成の第一条件が構成メンバーの「資格」の共通性である場合と「場」の共有によるものである場合のいずれかである、とした点です。そして日本人は一般に「自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先すること」(同書)と分析しています。「場」とは会社とか集落など集団の「枠組み」を指すのですが、一つの例を出すなら、社会人が自分のアイデンティティを問われたとき、どういう専門技術を持っているかではなく、どの会社に所属しているかを連想するということです。
「場」の原理で構成される社会では、異なる「資格」を有する者、つまり本来なら集うだけの共通点を持たない人たちが集団に内包されるわけですから、いかにして結束を保つかが重要になります。中根の分析によると、それはメンバーに一体感を持たせる働きかけでおこなわれるのと同時に、集団内の人びとを結ぶ内部組織を築いて強化する方法がとられます。家族的な経営を標榜する会社が、社員旅行を実施したり毎朝社歌をうたわせるのは、一体感を持たせる働きかけといっていいでしょう。社内サークル、社宅、慶弔金制度などは、メンバーを結ぶ内部組織を強化する仕組みともいえます。
こうした集団は、メンバー内には情緒的な結びつきが強まる一方、集団の「しがらみ」が個人の私的生活領域にまでおよぶという特質があります。よくいえば緊密な仲間意識にひたって生活が送れますし、わるくいえば私生活がないに等しい状況になってしまいます。経済高度成長期であれば、会社の発展は個人の生活水準の向上をも意味していましたので、会社と個人生活との一体化は、個人にとっても都合のいい部分が多かったといっていいでしょう。しかし、バブル期前後に会社と個人の蜜月関係は崩れはじめました。好況のときは、意欲的なサラリーマンはキャリアアップを目指して転職し、不況のとき、企業は社員を容赦なくリストラしました。もはや組織は個人の生活を守ってはくれない。結果、「場」の原理は個人を束縛する面だけが残ってしまったのです。これが伝統的な社会に対する閉塞感をもたらしたと考えていいでしょう。
他方、「資格」の共通性の原理で形成される集団は、最初からなんらかの共通する属性を求心力にして集いますので、とくに結束を強制しなくても集団を維持できます。この「資格」という視点は、技能や趣味など個人が持つさまざまな属性のことですので、当然ながら個人は複数の「資格」を持つのが一般的です。結果、この原理のもとでは複数の集団に所属できますので、集団が個人を束縛する余地は低くなります。
中根は「場」への帰属原理の集団を「タテ社会」、「資格」原理の集団を「ヨコ社会」と呼びましたが、ヨコ社会には、「個人の生活の場とか、仕事の場のいかんにかかわらず、空間的・時間的な距離をこえて、集団はネットワークによって保持される可能性を持っている」(同書)と指摘しています。近年注目されているボランティア活動や、昨年の長野県知事選挙・千葉県知事選挙で当選候補側に出現した勝手連的支援グループもまた、中根の分析した集団の形成メカニズムを具体的にあらわしているといっていいでしょう。こうした集団のあり方を私たちは「ネットワーク社会」と呼びますが、意味するところは「ヨコ社会」とおなじです。
ネットワーク社会に対するもうひとつの意味あいとは、情報通信メディアが高度に発達し、個人生活の隅々にまで浸透した社会のことです。いまでこそインターネットがその主役となっておりますが、一九七〇年代に国鉄(当時)の「みどりの窓口」での発券業務や銀行の主幹業務などにコンピュータ端末が導入されたときにも、「オンライン化」というキーワードのもと、ネットワーク社会の到来がうたわれました。また、八〇年代にはいわゆるニューメディアが社会的に注目され、衛星放送、自動車電話、ビデオテックスなどのメディアが華々しく登場しました。このときにもネットワーク社会ということばがマスメディアに頻出したものです。
こうした点に注目するなら、ネットワーク社会というキーワードが持つ意味あいとしては、「情報通信ネットワークが浸透した社会」の方が歴史を持っていると解釈できます。しかし、おなじことばが繰り返されているにせよ、時代時代によって社会での受け止められ方に違いがあることに注意しなくてはいけません。
七〇年代の時点では、コンピュータ自体がまだ未来的な道具という意識が強く、企業活動や社会のごく一部ではあっても、コンピュータが入り込んできたことに驚きがあったのです。それに比べて八〇年代のニューメディア・ブーム時代には、コンピュータと通信との融合が進むと同時に、多彩なメディアの端末が家庭にまで入り込もうとしました。個人のライフスタイルがメディアによって激変しそうだという意識は、この時期に萌芽したと考えていいでしょう。しかし、多くの未来小説的なシステムが現実のものになろうとしたとはいっても、パソコンは性能的な制約が多かったうえに高価でしたし、データ通信のインフラそのものが整備の緒についたばかりでした。NTTのINS(高度情報通信)構想は、「いったい(I)なにを(N)するの(S)?」の略だと揶揄されたものです。
それから十年を経て、九〇年代の半ばには、パソコンの性能は画像処理までおこなえるほどに高度化し、しかも個人にも普及しつつありました。アメリカでは多くの人がインターネットの電子メールなどを日常的に使い、日本でも大手パソコン通信サービスの利用者が百万人を越えるとともに、インターネット利用者も激増の兆しを見せました。ニューメディア時代には「絵に描いた餅」だったネットワーク社会は、技術面では現実化したのです。
その間、コンピュータ・ネットワークだけでなく、携帯電話が爆発的に普及しています。その前段階には、中小企業経営者がおもに使っていたペイジングシステム、通称ポケベルは女子高校生を中心に十代のコミュニケーション手段として浸透した時期がありました。九〇年代半ば以降の時代とは、インターネットだけでなく、個人が日常的なコミュニケーションに利用するメディアが一気に拡大した時期でもあるのです。
こうしたなかで、本来はまったく視点が異なるネットワーク社会という枠組みが、ほぼ一体化するような状況が生じてきました。いわば、ネットワーク上にネットワーク型の社会が築かれつつあったのです。
都市社会学者の研究によりますと、日本の大都市圏に勤務するサラリーマン家庭では(ということは、日本社会の最大公約数的な家庭では)、夫の人間関係は会社中心に形成され、妻の交際範囲は自宅を中心にした地域内にとどまる傾向が強い、という結果が報告されています。これは職住分離環境と長距離通勤がもたらした結果で、たとえばフランスのパリのような「職・住・遊」混在環境と比べてみると、交際範囲の違いが生じるのはあきらかです。
パリでは職場・アパート・遊ぶ施設が街のなかに混在していますので、市民の多くは自宅から三〇分以内に勤務先がありますし、映画館やレストランなども自宅のすぐ近くにいくらでもあります。サラリーマンは午後五時に仕事を終えると五時半には自宅に着き、六時前にはデートの場所に行けることになります。当然ながら、お相手は会社の同僚である必要はなく、パリ市内に住む友人となら誰とでもアフター5の時間を過ごせるわけです。
これが東京勤務のサラリーマンとなると、埼玉や千葉の自宅との間の移動に片道で一時間以上もかかりますし、残業もあるでしょうから、自宅に着くのは早くて七時半でしょう。こうなると、ゆっくりと会える相手は勤務先が近くにあるか、おなじ職場の人だけになってしまいます。もちろんこの議論は、もっと細かく分析しなくてはいけないのですが、首都圏勤務のサラリーマンが「会社人間」になりがちなのは、交際面で必然的なところが大なのです。私たちの交際は、時間や距離という制約を大きく受けていることがおわかりいただけると思います。
そこに登場したのが、ポケベル、携帯電話、そしてインターネットなどのコミュニケーション手段です。これらの通信手段は、距離の制約から開放してくれることはいうまでもありません。しかも従来の固定電話に比べ、携帯電話はいつでもどこでも会話ができますし、ポケベルや電子メールなどは、好きな時間にメッセージを送ったり読んでりできるなど、時間の制約からも開放してくれます。常時持ち運べる携帯電話を用いた電子メールなど、「いつでもどこでも」という点では究極のツールといえるでしょう。
私はもともと出版関係の仕事をしておりましたが、じつはフリーの出版関係者の多くは、かなり早い時期からパソコン通信やインターネットを利用しておりました。不規則な仕事スケジュールをこなすフリーランスにとって、勤務時間は事実上二十四時間といってよく、仕事関係以外で人と会う余裕などほとんどありません。インターネットの電子メールや電子掲示板は、外部の人と接することのできる貴重な「窓」なのです。
おなじような状況が専業主婦にも見られます。このところ主婦がいわゆる「出会い系サイト」で知り合った人から、ストーキング行為を受けるといった事件が続きました。そんなところにアクセスするなど自業自得だ……と断じるのは簡単ですが、いろいろな物理的制約で人と接する機会のない人にとって、ネットワークが外界との唯一の設定であるかもしれない点を理解してください。
時間的な制約が少ない人でも、コミュニケーション手段はあらたな関係を築く契機をもたらしてくれます。十代の子どもたちにしても、緊密な関係を築くのは傷つけられそうで怖い、でも友だちはたくさんほしい、という発想に最もなじむ友だちづくりの方法は、おそらくネットワークを用いたコミュニケーションなのでしょう。
インターネット上の交流とは、具体的にはどういうコミュニケーションなのでしょうか? 細かく見ていくといろいろな方法がありますが、現在一般的なのは、電子メールや電子掲示板を用いた交流といっていいでしょう。電子メールというのは、コンピュータ・ネットワーク上に自分の「私書箱」を持ち、各個人の「私書箱」間で電子の「手紙」を交換する仕組みです。電子掲示板はネットワーク上の雑記帳のようなもので、そこに接続した者は誰でも自分のメッセージを書き残せますし、他の人が残したメッセージも読めます。
重要なことは、これらのコミュニケーションが基本的に文字のみでおこなわれ、さらに、本人が自己開示をしないかぎり、メッセージを残したのがどこのどういう人なのかがわからない(ことが多い)点です。電子メールは個人間のメディアですから、送信元のメールアドレスは表示されますが、それは一種の記号ですから、アドレスがわかったところで、どこの誰なのかわからないということはめずらしくありません。
こうした特徴は一般に「匿名性」といわれ、いわゆるネットワーク社会の負の部分と認識されがちです。しかし、匿名だからこそ日頃のしがらみを離れた交流が可能だという側面がありますし、そもそも文字だけの交流だから匿名的であるという発想が短絡的にすぎます。対面の状況でも匿名的な関係はいくらでも存在します。重要なことは、なぜ匿名性が受け入れられるのかを考えることです。そのキーワードは「都市生活」でしょう。
都市生活では人間関係の疎外が以前から指摘されています。曰く、マンション住民は隣人と挨拶をしないどころか顔すら知らないことがある、親身になって助けてくれる人がいない、得体の知れない人に突然襲いかかられるかもしれない等々。人間関係が疎外されている状態を、私はけっして推奨するつもりはありませんが、都会(とりわけ東京のような大都会)での生活というものは、いろいろな文化圏の人が集まっているがゆえに、地縁社会が発達した地域に比べて匿名性が高く、なおかつ「ドライ」な関係が好まれる点に留意するべきだと思います。逆にいえば、ドライな関係がなければ、おそらくは紛争が耐えない空間となってしまうでしょう。
このドライさが行き過ぎると疎外という結果になるわけですが、裏を返していえば、地域社会にだって互助精神が行き過ぎれば個人の抑圧につながるのとおなじことです。要は、地縁社会にも都会にも、それぞれ対極的な功罪があるというだけのことではないでしょうか。
日本社会での情勢は、都市化拡大の方向に進んでいるようです。その背景の一つに、市場経済の発達を見逃せません。東京のマンション住民は旅行のときに留守を任せられる隣人がいないという批判がありますが、都市生活者は警備会社のセキュリティ・サービスを選択できます。地縁社会なら人間関係を通じて得ている「サービス」を、都会では市場から購入できるわけです。必要なモノ・サービスは市場から調達するというライフスタイルもまた都市生活の特徴であり、いまや人間関係でさえ「購入」の対象になっている点を見逃すわけにはいきません。
地縁社会を基軸にした人間関係と、市場から調達した人間関係の最大の違いは、前者は関係自体が宿命的であるうえに、ひとたび築いてしまえば簡単には解消できないのに対し、後者は調達者が主体的に対象を選べるうえに、解消もまた簡単であるという点です。人間関係における「着脱」の容易さもまた都市的な特徴ですが、匿名性を前提にしたインターネット上の交流は、着脱という点ではこれ以上ないというほど好都合な仕組みなのです。
いつでもどこでも気軽に着脱可能な人間関係を調達できる便利な道具、それがインターネットであり、ネットワーク上のネットワーク社会とは、お手軽な人間関係の調達先として機能しているのです。もちろんこうして得られる関係は、伝統的な意味での緊密な関係にくらべれば、はるかに「薄口」といえるでしょう。これは良し悪しの問題ではなく、都市化や市場経済の進展と同ベクトルの流れなのです。ネットワーク社会以前にさまざまな人間関係を築いた「旧世代」にとって、これは不気味な現象かもしれませんが、ネットワーク世代にとっては旧世代の人間関係こそ不可解と映っているはずです。重要なことは、人間関係の形成にもいろいろなメカニズムがある点をお互いに理解しあうことでしょう。
(おわり)
ネットワーク社会の深層構造 —「薄口」の人間関係へ— |
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