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月刊現代(講談社/発行)2004年7月号pp.158-165
江下雅之
アメリカではフットボールを観戦に来た数万人もの群衆の顔を自動的に識別するカメラシステムが開発され、イギリスでは三〇〇万台以上のカメラが市民を監視する。そして日本でも、街の治安を守るという名目で繁華街に防犯カメラが設置されている。世界の監視カメラ市場は今後も急成長する見込みだ。我々の周辺は、かつてなかったほど「監視の目」が取り巻かれるようになったのである。
監視社会は現代に突如として出現したのではない。旧共産圏諸国はもちろん、戦前の日本社会も市民の思想を監視する社会であった。しかし、そうした時代の監視社会と現代のそれとは、監視に用いられるテクノロジー、そして監視対象である市民のライフスタイルの点で、従来とは根本的に異なるのだ。
国家がおこなうのであれ、私立探偵がクライアントの依頼に応じるのであれ、監視は基本的に手間のかかる作業である。旧東ドイツ政府は五〇万人もの秘密諜報員を雇い、そのうちの一万人を市民の電話会話傍受に従事させていたという。監視は人海戦術頼みだったのだ。ところが現代は、携帯電話やGPSなどネットワークにくわえ、デジタルビデオやデジタルカメラなどのおかげで、監視を広範囲にわたって自動化できるのである。この点が監視社会にあらたな局面をもたらしたのだ。
インターネットや携帯電話を当然のごとく利用する我々の生活そのものがまた、電子的な監視には好都合である。たとえば私は、オンライン書店のアマゾンから頻繁に本を購入するが、なにか一冊購入するたびに、画面には私の興味をそそる本が多数表示される。これは、利用者の購買履歴を業者が管理し、「こういう本を買う人は、これらの本もほしがる傾向がある」という分析を常時おこなっている結果だ。
このような分析を普通は「監視」とはいわない。顧客情報管理とか販売情報管理などと呼ばれるマーケティング手法のひとつである。詳細な分析が可能な業者ほどビジネスの世界では評価されるものだ。とはいえ、消費者の足跡が記録されている事実にかわりはない。我々の行動が業者に規制されていないから「監視」といわないだけで、おこなっていることは監視とかわりはない。
そして9・11以降のアメリカ政府は、テロ容疑者捜査の名目で民間企業にさまざまな顧客情報・販売情報を提供させている。それどころか、国防総省が進めるライフログ計画は、個人が消費活動などで残す電子的な「足跡」を網羅的に捕捉できるシステムの構築を目指している。マーケティングのためのシステムは、国家の思惑や社会情勢によって、個人を監視するシステムへと即座に切り替わる可能性があるのだ。
携帯電話を持ち歩くこと、電子メールを送受信することなど、みずからのプライバシーを放棄するに近い行為なのだ。携帯電話とは、「わたしはいまここにいますよ」という位置情報をリアルタイムで発信する仕組みにほかならない。一九九八年には、スイス警察が携帯電話保持者の位置情報を秘密裏に追跡していたことが暴露された。位置情報を監視しようとする動きは、すでに現実のものなのである。
インターネットの電子メールは透明の封筒入った手紙のようなもので、メールを中継するサーバで簡単に盗み見されてしまう。しかも状況によっては盗み見が正当化されることがあるのだ。二〇〇一年一二月三日、社内ネットワークを用いた私的メールを上司が本人に無断で閲覧しても、プライバシーの侵害にはあたらない、という判決が下された裁判が東京地裁であった。社員によるネットワークの私的利用に厳しい米国企業の場合、三八パーセントの企業が電子メールの保存や閲覧をおこなっており、五四パーセントがインターネットの接続状況をモニタリングしている、という調査結果もあるのだ。
企業はなぜ社員のネットワーク利用を監視するのか。もちろん、会社の財産を不当に使わせないという目的もある。しかし、最大の理由は、機密の流出を防ぐこと、そして外部からのクラッキング行為に備えることである。もともとインターネットのサーバを管理するときに、「スニッファ(探知)」と呼ばれる管理ソフトがしばしば利用される。不正アクセスやウイルスなどの問題があるため、企業のネットワーク管理者にしてみれば、社内LANに接続されているコンピュータの管理は不可欠な業務だ。その範囲がメールの内容にまで含めていいかどうかは、法律の専門家でも意見がわかれている。
ところが、アメリカでは電子メールをサーバ上で貪る「肉食獣」がFBIによって育てられていた。二〇〇〇年七月、FBIが電子メール傍受システムに関する説明会を通信事業者向けにおこなっていたことを、ウォール・ストリート・ジャーナル紙がスクープした。システムのコード名は“Carnivore”(カーニボー、「肉食獣」の意)で、その後のマスコミの取材によれば、一九九九年一〇月から二〇〇〇年八月までのあいだに一三件の調査で使われていたことも判明した。
カーニボーはノートブックパソコンにインストールされ、FBI捜査員が必要に応じてプロバイダのサーバに接続する。FBIの説明によれば、サーバを通過するすべてのメールはカーニボーを通過するが、その際に傍受対象のアドレスに該当するメールだけが記録される仕組みだ。しかし、傍受されるのは本当に該当するメールだけなのか、記録の対象がメールヘッダだけなのか、それともメール本体まで含まれるのかは明らかにされていない。カーニボーの存在が公になってから、第三者機関が運用のあり方を監査したが、誤用防止の歯止めがないと批判している。
さらに、捜査員の恣意的な捜査をチェックする術もないのだ。さらに、捜査員が機器の操作に不慣れな場合、対象外のメールが大量に記録されることは十分にありうる。ちなみに、対象外のメールをうっかり傍受したことに気づいた捜査員が、うっかりと本来記録するべきメールまで削除してしまった、という事例が実際に存在する。消してしまったメールがアルカイダ関係者のものだったので、事が大々的に報道されたのである。
じつは日本の警察庁も「肉食獣」を飼っている。正式名称は「通信事業者貸与用仮メールボックス装置」で、二〇〇一年に仕様が公報で公開された。その運用は通信傍受法にもとづいておこなわれるのだが、FBIの場合とおなじ問題があることは間違いない。
ここ数年の監視カメラの急増は、じつのところ、市民みずからが選択している側面がある。市民自体が電子的な監視システムがもたらす省力化の恩恵に浴しているのだ。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、さまざまな手段がある。親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールする、なども有効な対応策であることは間違いない。しかし、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、はるかに手軽で低コストだ。
もともと都市型ライフスタイルは監視の省力化を受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣近所の人と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、隣人と日常的なつきあいを重ねるためには、なにかと気をつかわねばならない。隣人にわずらわされない生活とは、隣人どうしがお互いに何者なのかを知ろうとしない生活でもある。であればこそ、電子的な監視システムは、自分の安全を都合良く守ってくれる手段と認識されるはずだ。
しかし、テクノロジーへの安直な依存は、とんでもないしっぺ返しを喰らわす。あちこちに監視カメラが設置されることで、我々の行動がしじゅう記録される。その記録が犯罪捜査に用いられるときには、膨大な数の容疑者がカメラの記録から掘り出されるのだ。電子的な監視網が広がれば広がるほど、犯罪とは関係のない一般市民が容疑者として扱われるのである。二〇〇四年二月には、札幌市で防犯カメラに映った窃盗犯に似た男性を北海道警が誤認逮捕していた、という報道があった。このような誤認の件数は、監視カメラの設置台数が増えれば確実に増加するだろう。
位置情報サービスも「両刃の剣」である。携帯電話とGPSを組み合わせれば、GPSが把握した座標を携帯電話で発信できるので、端末所持者の所在を自動的に確認できる。これによって、端末保持者向けにさまざまなサービスを提供できる。たとえば山登りの際に持参していれば、山中で迷子になっても即座に位置確認ができるだけでなく、遭難時に救援隊が向かうべき場所が即座に判明する。
ストーカー被害に悩む人にとっても、位置情報サービスは心強い。二〇〇三年一月には、千葉県警がセコムと提携し、ストーカー被害者に端末を貸し出す試みがはじまった。被害者が端末から通報すれば、位置情報が千葉県警に送られ、県警は現場ちかくにいる警察官を無線を使って派遣する仕組みだ。それ以外にも、警備員が緊急時に駆けつけるサービスは複数の業者が提供している。徘徊老人や子ども向けのサービスもある。自分の所在を外部に知らしめることは、個人の自衛手段ともなっているのだ。
ところが、ストーカー側も位置情報サービスを「つきまとい」に利用できる。二〇〇三年二月にアメリカのミルウォーキー州で逮捕されたストーカーは、分かれたガールフレンドの自動車にGPS端末を密かに仕掛け、彼女が外出するたびにつきまとっていた。まったくおなじことは、日本でも起きうるのである。
技術的な可能性から見れば、マイクロチップが超監視社会を完成させる基盤技術である。マイクロチップはRFIDという在庫管理用ICタグでの需要が拡大している。万引き対策はもちろんのこと、バーコードよりも数段効率的な商品管理手段であることが認識されつつある。また、松下電器産業の「ものしりトーク」のように、音声を録音できるICタグが開発されており、これに商品情報を記録し、目が不自由な人が品物を確認できる仕組みが提案されている。同様に、点字ブロックに録音ずみICタグを埋め込んだ歩行者用のナビゲーションシステムを開発したメーカーもある。そのほか、マイクロチップは福祉分野での応用が期待されている。
誘拐がビジネス化している中南米では、マイクロチップを身分証明用に埋め込む人がいる。マイクロチップを個体識別用に利用しようとのアイデアは、もともとはペットを管理するために鑑札の代替品として普及した。米国や英国ではすでに、二〇〇〇万個以上のマイクロチップがイヌやネコに埋め込まれている。それによって、ペットが迷子になったときには即座に飼い主を特定できるのだが、同時にこれは、ペットの盗難対策にもなっている。このような危険性はヒトにもあてはまるのだから、人間相手にマイクロチップを埋め込もうという発想は、けっして突飛なものではない。
監視を実行するテクノロジーは、いまやあたらしい段階に入った。一九五〇年代から推進された監視の自動化は、一九八〇年代に大規模なシステムによって実現された。そして二一世紀に入り、従来の端末機器に比べて極端に小さいマイクロチップが、我々の身の回りのありとあらゆるところに浸透する。また、携帯電話網や無線LANなど、ありとあらゆるところからアクセスが可能なネットワークが我々を取り囲む。マイクロチップは紙幣への埋め込みも可能なのだから、最も匿名性の高い存在であるはずの紙幣すらも、移動履歴を管理できるようになるだろう。そのような時代が到来しつつあるということに対し、我々はもっと自覚的であるべきだ。
監視という行動には二つの原則がある。一つは「凶悪な人物が犯罪を犯さないように監視すること」であり、もう一つは「善良な市民が被害にあわないように見守ること」である。これら二つの側面がうまく使い分けられれば、なるほど市民には都合がいいかもしれない。しかし、凶悪な人物と善良な市民とが区別できないからこそ、市民の安全を守るシステムは、全市民を潜在的な犯罪者として監視することになるのだ。
実のところ、犯罪者と善良な市民との線引きは容易ではない。守られるべき存在である子どもが殺人を犯すことがある。さらに、ストーキングや家庭内暴力などは、日常的な行為のちょっとした逸脱と犯罪との境界があいまいである。誰もが犯罪者となりうるのであり、ゆえに監視システムは市民すべてを監視対象とするのだ。
9・11以降のアメリカ社会では、市民をテロから守るという口実で通信傍受やアクセス記録の政府への提出など、監視体制の強化が進んでいる。ここでもまた、テロリストと市民とが明確に区別されるもの、という前提が置かれている。しかし、テロリストが市民の日常生活に潜むからこそ、テロ対策の監視システムは必然的に市民を監視するシステムとなるはずなのである。
日本ではテロ対策よりも犯罪防止の目的で監視システムが浸透しようとしているが、そもそも犯罪件数は本当に増えているのか、本当に凶悪化しているのだろうか。新宿歌舞伎町などに設置された街頭監視カメラは、警察当局の主張によれば、着実に成果をあげているという。しかし、いかなる〈網〉であろうと、大なり小なりの、あるいは多かれ少なかれ、〈魚〉はとれるものなのだ。成果がゼロということは、そもそもありえない。監視カメラの例とは異なるが、米国では、捜査目的で通信傍受をおこなう件数が増加の一途をたどっているという。そして、検挙に至った通信傍受件数の比率は、年々低下しているのだ。このことが示すことは、警察当局はひとたび手にした捜査方法を乱発する傾向がある、ということではないのか。監視カメラでもおなじことがいえるのではないか。
犯罪の増加や凶悪化という主張自体も疑ってみるべきである。実際、我々は治安は悪化しているかの印象を受ける。凶悪事件はメディアでたびたび報道される。そのたびに、世の中がこういう情勢なのだから、監視システムも必要なのではないか、と思ってしまうわけだ。杉並区が監視カメラの設置及び利用基準を審議した際にも、犯罪の増加が定量的なデータを用いて指摘されている。ところがこのデータは、あくまでも警察によって認知された件数にすぎないのだ。犯罪の増減を客観的に論じるには、犯罪の全件数が必要なのである。ところがそのようなデータは存在しない。そもそも犯罪に関するデータを、警察以上の精度で我々が収集することは不可能だ。したがって、警察が出すデータの検証すらも果たせないのである。
逆に、いくつかの犯罪例を見せつけられるだけで、我々は治安の悪化を認めてしまう。テレビは繰り返し凶悪犯罪の経緯を報道する。商業メディアの論理として、世間の注目を集めそうな事件を報道するのは当然のことである。ところがその結果、我々は常に不安を煽られるのだ。かくしてますます監視システムを推進する口実がつきやすくなってしまうのである。テロや犯罪を十分に防止できないことすらも、監視社会を強化する理屈にすりかえられてしまうのである。
プライバシーとセキュリティとは、本質的に対立する発想である。なぜなら、プライバシーの古典的な定義は「一人にしてもらう権利」であるのに対し、セキュリティの基本は、「けっして一人にはしないこと」だからだ。したがって、プライバシーに重きを置けば、誰かから守ってもらうことを期待できない。自分の安全を守る術は、自分で用意しなければならないのだ。ここに監視システムが浸透する余地が生じる。
現代の監視社会化の流れで留意すべき点は、監視される側が意思に反して〈監視〉を強制されるのではなく、みずから好んで監視されることを選択しつつある点だ。日常的な犯罪に対する不安、そして電子的な監視システムの手軽さが「現代人受け」しているのである。一人一人の立場が弱いからこそ、孤立した個人は監視システムのような無機質なツールで自衛することを選択する。そしてさらに、利便性をまとった情報サービスにこそ監視社会化を推進する。
もちろん、監視という行為がいっさいない社会は考えられない。問題は、「誰が」「どうやって」監視をおこなうか、そのような合意形成を「誰が」「どうやって」下すか、である。本来であれば、そこに住まう人たちが、いかにして自分たちのコミュニティを運営していくか、という議論が生じるはずなのだ。それが現実には、安直にテクノロジーに頼ろうとしてしまうのである。
ところが、電子的監視を安直に選択してしまうと、すぐさまコントロール不能の状態に陥ってしまうのだ。実際のところ、どこか一箇所に監視カメラが設置されたら、地域全体に監視カメラ網が広がるのは時間の問題である。なぜなら、監視カメラの設置場所で犯罪が減少したとしても、歌舞伎町や原宿などの例をみるかぎり、犯罪の発生場所がカメラの死角に移動するだけだ。であれば、監視カメラは網羅的に設置する必要がある、という結論に至らざるをえない。その結果、あらゆる場所にカメラが設置され、我々の日常生活をくまなく記録する、という事態に至ってしまうのである。
テクノロジーに「影」の部分が存在するとはいえ、我々はテクノロジーを拒否できない。ならば、監視にかかわる部分、たとえば携帯電話とかマイクロチップの浸透だけを選択的に拒否できるかというと、それも不可能なのである。なぜなら、あらゆるテクノロジーは相互に干渉しながら進化しているうえに、テクノロジーの浸透とライフスタイルの変化とは、つねに一体となって進展しているからだ。かりにどこか一部のテクノロジーを取り出し、そこだけ時計の針を逆転させようとすれば、生活水準そのものも過去に戻す必要があるのだ。つまり、電子的監視を徹底して排除するためには、エレクトロニクスの出現以前、すなわち一九世紀にまで生活を戻さなければならないのである。
監視社会という問題に対しては、特効薬も即効薬もない。極論するなら、我々は監視システムを素直に(あるいは無邪気に)受け入れたライフスタイルを許容するか、あるいは電子的な監視システムを不要とする人間関係を地道に構築するライフスタイルを採り入れるかの、いずれかしか選択肢はないのである。