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D・ライアン来日記念国際シンポジウム「〈監視社会〉と〈自由〉」
会場:上智大学 協賛:毎日新聞社
シンポジウム資料「監視とテクノロジー」2004年9月22日配布
江下雅之
【要約】
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監視社会は現代に突如として出現したのではない。旧共産圏諸国はもちろん、戦前の日本社会も市民の思想を監視する社会であった。しかし、過去の監視社会と現代のそれとは、監視に用いられるテクノロジー、そして監視対象である市民のライフスタイルの点で、根本的に異なるのである。
監視は基本的に労働集約的な作業である。旧東ドイツ政府は五〇万人もの秘密諜報員を雇い、そのうちの一万人を市民の電話会話傍受に従事させていたという。ところが現代は、携帯電話やGPSなどネットワークにくわえ、デジタルビデオやデジタルカメラなどのおかげで、監視を広範囲にわたって自動化できる。アメリカではフットボールを観戦に来た数万人もの群衆の顔を自動的に識別するカメラシステムが開発され、イギリスでは三〇〇万台以上のカメラが市民を監視する。そして日本でも、街の治安を守るという名目で繁華街に防犯カメラが設置されている。世界の監視カメラ市場は今後も急成長する見込みだ。我々の周辺は、かつてなかったほど「監視の目」が取り巻かれるようになった。
電子的監視がもたらす第一の効用は、監視に従事する人の労力の省力化である。作業の省力化によって、人海戦術では不可能な監視が達成可能となる。一九七〇年代から八〇年代にかけて、米国は世界規模で通信傍受システムを構築してきた。「エシュロン」というコード名で知られるようになったそのシステムは、情報収集活動の省力化が重要な目的であった。そして米国の国防総省が二一世紀に入ってから構築を進めているTIA(Terrorism Information Awareness:テロ情報認知)と呼ばれるシステムは、情報分析官の業務を高度なレベルで自動化・省力化することを目指したものである。
市民がみずからの安全を守ろうとする行為に対しても、電子的な監視システムは省力化の恩恵を与えてくれる。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールする等々、さまざまな手段がある。しかし、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、はるかに手軽で低コストだ。
もともと都市型ライフスタイルは監視の省力化を受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣人と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、その隣人は変質者かもしれないし、潜伏中の犯罪者かもしれない。都市生活には、どこにどういう人物がいるのかがわからない恐怖がつねに存在する。であればこそ、電子的な監視システムは、自分の安全を都合良く守ってくれる手段と認識されうるはずなのだ。
しかし、テクノロジーへの安直な依存は、とんでもないしっぺ返しを喰らわす。あちこちに監視カメラが設置されることで、我々の行動がしじゅう記録される。その記録が犯罪捜査に用いられるときには、膨大な数の容疑者がカメラの記録から掘り出されるのだ。電子的な監視網が広がれば広がるほど、犯罪とは関係のない一般市民が容疑者として扱われるのである。実際に、防犯カメラに映った窃盗犯に似た男性を警察が誤認逮捕していた、という事件が起きているのである。このような事例は、監視カメラの設置台数が増えれば確実に増加するはずだ。
携帯電話とGPSを組み合わせた位置情報サービスも「両刃の剣」である。これによって、たとえば山登りの際に持参していれば、山中で迷子になっても即座に位置確認ができるだけでなく、遭難時に救援隊が向かうべき場所が即座に判明する。ストーカー被害に悩む人にとっても、位置情報サービスは心強い。警備員が緊急時に駆けつけるサービスは複数の業者が提供している。徘徊老人や子ども向けのサービスもある。自分の所在を外部に知らしめることは、個人の自衛手段ともなっているのだ。
ところが、ストーカー側も位置情報サービスを「つきまとい」に利用できる。二〇〇三年二月にアメリカのミルウォーキー州で逮捕されたストーカーは、分かれたガールフレンドの自動車にGPS端末を密かに仕掛け、彼女が外出するたびにつきまとっていた。まったくおなじことは、日本でも起きうるのである。
個人が簡単にハイテクを装備できるこが現代であり、カメラ付き携帯電話とインターネットの普及により、「監視の目」は急拡大してしまった。たとえば覗き屋のなかには、小型CCDカメラを靴の先に仕掛けて画像を撮影する者もいる。更衣室やトイレに電波を発信するカメラを仕掛け、外で映像を受信することも可能だ。赤外線カメラを使えば透視もできる。すこし以前ならスパイの七つ道具として通用しそうなものが、いまでは一般個人でも手軽に買えてしまうのである。
かつて覗き見の被害者は、覗き屋の記憶に束の間とどまるのみだった。現代はデータとして記録され、不特定多数の人のところにコピーが行き渡る可能性がある。なにしろ映像や画像を記録する道具を多くの人が日常的に持ち歩き、インターネットというデータの流通チャネルを利用できる時代なのだ。技術的な可能性からすれば、女性のスカート内の様子を電車のなかから「実況中継」できるのである。そして中継された映像は、インターネットのあちこちでコピーされるかもしれない。
インターネットを舞台にした犯罪的行為では、匿名の加害者の問題が注目されがちだが、それ以上に、匿名の被害者にこそ危惧を抱くべきである。通常、被写体が特定されないかぎり、盗撮画像があちこちに流通したところで、盗撮された人が被害をこうむることはない。しかし、ひとたび被害者が特定されるようなことがあれば、相当な精神的ダメージを受けるだろう。しかも、流通した盗撮画像を回収するのは不可能だ。
被害が露顕する事例はきわめて少ないとはいえ、このような可能性を知れば、多くの人は気色悪さを感じるはずだ。個人がネットワークを駆使できる時代というのは、このような部分も受け入れなければいけないのである。しかも、匿名の被害者を救済するべく管理を強化しよう、と主張しようものなら、監視社会はさらに加速を速める結果となるのだ。なぜなら、被害者の救済は、ネットワークの全利用状況を捕捉可能な仕組みを導入しないかぎり不可能だからである。
技術的な可能性から見れば、インターネット、携帯電話、GPS、そしてマイクロチップが超監視社会を完成させる基盤技術である。マイクロチップはRFIDという在庫管理用ICタグでの需要が拡大している。バーコードよりも数段効率的な商品管理手段であることが認識されつつあるほか、福祉分野での応用が期待されている。
誘拐がビジネス化している中南米では、マイクロチップを身分証明用に埋め込む人がいる。個体識別用マイクロチップは、もともとペットを管理するために普及した。米国や英国ではすでに、二〇〇〇万個以上のマイクロチップがイヌやネコに埋め込まれている。それによって、ペットが迷子になったときには即座に飼い主を特定できるのと同時に、ペットの盗難対策にもなっている。このような危険性はヒトにもあてはまるのだから、人間相手にマイクロチップを埋め込もうという発想は、けっして突飛なものではない。
注意が必要なことは、本来なら監視される側である市民のほうが、みずから進んで監視を受け入れるという状況がある点だ。一九九八年には、スイス警察が携帯電話保持者の位置情報を秘密裏に追跡していたことが暴露された。ところが日本では、位置情報がビジネスの対象として取り扱われているのである。これは、個人情報と引き替えに利便性を享受していることにほかならない。
監視を実行するテクノロジーは、いまやあたらしい段階に入った。一九五〇年代から推進された監視の自動化は、一九八〇年代に大規模なシステムによって実現された。そして二一世紀に入り、従来の端末機器に比べて極端に小さいマイクロチップが、我々の身の回りのありとあらゆるところに浸透する。また、携帯電話網や無線LANなど、ありとあらゆるところからアクセスが可能なネットワークが我々を取り囲む。いわゆるユビキタス社会とは、いたるところにコンピュータが置かれている社会だが、これはすなわち、生活空間の隅々にまで監視の網が張り巡らされている、ということだ。
プライバシーとセキュリティとは、本質的に対立する発想である。なぜなら、プライバシーの古典的な定義は「一人にしてもらう権利」であるのに対し、セキュリティの基本は、「けっして一人にはしないこと」だからだ。プライバシーに重きを置けば、自衛手段を持たなければならない。ここに監視システムが浸透する余地が生じる。現代の監視社会化の流れで留意すべき点は、監視される側が権力者からの〈監視〉を強制されるのではなく、みずから好んで監視されることを選択しつつある点だ。そして、利便性をまとった情報サービスが監視社会化を推進するのである。
もちろん、監視が皆無という社会は考えられない。問題は、「誰が」「どうやって」監視をおこなうか、そのような合意形成を「誰が」「どうやって」下すか、である。本来であれば、そこに住まう人たちが、いかにして自分たちのコミュニティを運営していくか、という議論が生じるはずなのだ。それが現実には、安直にテクノロジーに頼ろうとしてしまうのである。ところが、電子的監視を安直に選択してしまうと、すぐさまコントロール不能の状態に陥ってしまう危険性に、なかなか発想が進まない。
いずれにせよ、我々はテクノロジーを拒否できない。監視にかかわる部分の浸透だけを選択的に拒否することも不可能である。あらゆるテクノロジーは相互に干渉しながら進化しているうえに、テクノロジーの浸透とライフスタイルの変化とは、つねに一体となって進展しているからだ。どこか一部のテクノロジーを否定しようとすれば、生活水準そのものも過去に戻す必要がある。
監視社会という問題に特効薬も即効薬もない。極論するなら、我々は監視システムを素直に(あるいは無邪気に)受け入れたライフスタイルを許容するか、あるいは電子的な監視システムを不要とする人間関係を地道に構築するライフスタイルを採り入れるかの、いずれかしか選択肢はないのである。
こうした選択肢を熟考するいとまもなく、テクノロジーとライフスタイルの双方で監視社会化を促す状況が展開し、監視システムのツールは我々の身近な生活場面に浸透する。反面、市民的自由やプライバシーなどをめぐる議論は、その種の事件の当事者を除けば、おおよそ自分たちの生活とは接点のない主張と認識されてしまう。我々は「身の安全」という自分自身にかかわる〈小さな物語〉には敏感である一方で、「市民的自由」という〈大きな物語〉には当事者意識を持てない。テロ対策や治安維持を進めようとする明確な意志が国家側にある以上、こうした意識の乖離は、監視社会化をいっそう加速するだろう。
(終わり)
※本稿は、月刊『現代』(講談社発行)の2004年7月号に掲載された拙稿「監視社会はあなたの携帯・メールを追いかける」を改稿したものです。