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監視社会の新次元 New dimensions on surveillance society
関西学院大学総合政策研究(関西学院大学総合政策部)
第20号(2005年7月)pp.206-207
江下雅之
監視社会は現代に突如として出現したのではない。古今東西を問わず、権力者は民衆をさまざまなかたちで監視してきた。マイノリティの迫害という、多数派による少数派への監視という形態も存在する。しかし、現代における監視社会という状況は、監視に用いられるテクノロジーをめぐる状況、そして監視の構造それ自体が従来とは異なる点に注目しなければならない。
もともと監視は人手と時間がかかる行動である。監視の「古典的」な構図の一つに、国家が秘密警察や諜報機関を動員して国民を監視するというかたちがある。この場合、一人で監視可能な人数には当然ながら限界がある以上、国民という規模をモニタリングの対象とするには、膨大な捜査員と予算が必要となるだろう。実際、旧東ドイツの秘密警察は、市民を網羅的に監視するために数十万人規模の秘密捜査員を雇っていたといわれる。他方、いかに労力がかかろうとも、権力者は必要とあらば監視の手間を惜しまないことは、9・11以降の米国を見れば明白だ。
古来、テクノロジーの開発は省力化の恩恵を人類にもたらしているが、それは監視という作業でも例外ではない。携帯電話網やGPSなどの情報インフラにくわえ、高度に発達した電子デバイス群のおかげで、監視作業を広範囲にわたって自動化できるようになった。それによって、人海戦術では到底不可能な監視が実現できるのである。一九七〇年代から八〇年代にかけて、米国は地球規模で通信傍受システムを構築してきた。「エシュロン」というコード名で知られるようになったそのシステムは、情報収集活動の省力化が重要な目的であった。そして米国の国防総省が二一世紀に入ってから構築を進めているTIA(Terrorism Information Awareness:テロ情報認知)と呼ばれるシステムは、情報分析官の業務を高度なレベルで省力化することを目指したものである。
しかし、テクノロジーがもたらした効果は、監視の省力化という作業レベルの変化にとどまらない。監視の次元そのものを転換した点に注目するべきである。
監視テクノロジーの恩恵に浴するのは国家だけではない。市民の自衛行為に対しても、電子的な監視システムは省力化をもたらしている。たとえば小学校に通う子どもの安全を守るには、親が送迎する、スクールバスを用意する、地域住民がパトロールするなど、さまざまな対応策がある。ところが、このような手間のかかる手段にくらべ、校門に監視カメラを設置することのほうが、監視という作業に関わる労力の点で手軽である。また、不在中の留守番を近隣住民との人間関係に依存するのではなく、セキュリティ・サービスを利用するというのも、テクノロジーによる監視の省力化と捉えていいだろう。都市住民にとり、電子的監視は合理的な自衛手段なのだ。
もともと都市型ライフスタイルは監視テクノロジーを受け入れやすい素地を持つ。自分の都合や好みによって人間関係を極小化できる点が、都市型ライフスタイルの魅力だからだ。日ごろから隣近所の人々と緊密な交流をしていれば、いざというときに助けてもらうことも可能だろう。しかし、現代の都市社会においては、隣人は変質者かもしれないし、潜伏中の犯罪者かもしれない。どこにどういう人物がいるのかがわからない点は、都市の魅力であると同時に恐怖でもある。そうである以上、監視テクノロジーが都市生活を支える側面があることは否定できないのである。
監視テクノロジーによる自衛は、地域社会レベルでも着々と進行している。実際、いくらテクノロジーが進歩したところで、一個人の努力だけで治安が守れるわけではない。地域社会としての取り組みは不可欠だ。その結果として生じている現象の一つが、商店街や住宅地の監視カメラ群である。たしかに住民による自主的なパトロール活動のような人手をかけた努力が重ねられている地域はある。しかし、監視カメラの設置、それらのネットワーク化という監視テクノロジーの浸透は、衝撃的な犯罪が繰り返し報道される都度、多くの地域社会で導入されつつあるのだ。
監視テクノロジーの浸透は三つのレベルで進行している。すなわち、国家あるいは超国家規模で運営されるグローバルな監視ネットワーク、地域社会レベルで構築・運営されるコミュニティを守ための監視ネットワーク、そして個人が自衛手段として駆使する監視システムである。
治安維持の枠組みが基本的に国家単位で形成される以上、監視体制にも国家レベルの規模が必要となる場面があって当然だ。さらに、国際的なテロリストや犯罪者集団の問題が深刻化している以上、自国の安全を守るためには、国の枠組みを超えた監視システムが不可欠である。実際、利害を共有する国家が連携することにより、超国家的な監視システムが制度面も含めて形成されている。テロ情報の相互運用、そのための通信傍受体制の整備、パスポートの個人認証方式の変更などは、その一貫と位置づけられる。
地域社会レベル、個人レベルの監視テクノロジーの浸透は前述した通りだ。重要なことは、この二レベルの監視が住民や個人の要望で導入される一方、実際には警察組織が関与し、国家レベルの監視システムに組み込まれつつある点だ。すなわち、「気がついてみたら国に強大な監視システムが形成されていた」という事態になりかねないのである。
一方、監視の構図を三つのパースペクティブから整理してみたい。
もともと監視という状況には、伝統的に二つの形態が存在する。一つは少数者が多数者を監視する「パノプティコン的(な状況)」であり、もう一つは多数者が少数者を監視する「シノプティコン的(な状況)」である。警察に治安の維持を委ね、そのための捜査ツールの利用を認めている状況も、パノプティコン的と形容してよかろう。また、圧倒的多数の「善良な」地域住民が犯罪予防のために自衛の体制を整えることは、シノプティコン的と捉えることが可能だ。むろん、監視のレベルとパースペクティブとはリンクされたものではなく、さまざまなレベルでさまざまなパースペクティブが錯綜している。ところが、現代の監視社会には、もう一つのパースペクティブが顕在化しているのである。
第三のパースペクティブは「周望的(ペリオプティック)」である。これは、あらゆる人が監視者であるのと同時に被監視者でもあるという監視だ。中世欧州で発生した「魔女狩り」がそれに近い構図といえるだろう。
監視という行動は社会運営に不可欠である。監視という言葉が伝えるニュアンスがどうであれ、いかなるレベルであろうと監視なしの「無邪気」な生活など不可能なのだ。そうである以上、いかにして民主的な監視社会を形成するかが現実的な争点とならざるをえない。テクノロジーが監視を完全に自動化すれば、理論上、あらゆる人が被監視者となるので、状況としては民主的といえよう。しかし、システムの構築と維持が結局は人手に依存せざるをえない以上、自動化による完全な民主化は実現不可能である。
パノプティコン的にせよシノプティコン的にせよ、監視・被監視の立場の固定点が権力の不均衡をもたらす以上、あらゆる構成員が監視者であるペリオプティックな状況は、じつに民主的な監視社会である。監視が労働集約的な作業であろうと、社会の構成員全体が監視者となるのだから、人手不足という事態はありえない。一見するとナンセンスなこの状況は、実現可能性がゼロとはいえない。
たとえば電話が一般市民に浸透しつつあったころ、交換手不足が電話の普及を妨げるという予測があった。制約を打破するには、人口と同数の電話交換手が必要とされた。現在、われわれは相手の番号を覚え、その番号を自分でダイヤルして相手を呼び出す。この一連の作業は、かつての交換手によるサービスそのものだ。電話がほぼ普及しきった現代おいては、人口と同数の交換手が存在するといっていい。これとおなじ展開が監視にも適用されるかもしれない。「監視」という言葉を「見張る」ではなく「見守る」と捉えれば、ペリオプティックな監視社会とは、じつに心あたたかい社会と認識できるだろう。
しかし、我々は注意しなければならない。権力者にとって最も理想的な監視社会とは、少数の権力者が市民を監視する一方で、被監視者たる市民の間ではペリオプティックな状況が成立している社会である。監視されている人々が監視に加担するのだから、権力者にとってこれほど都合のいい事態はない。社会が外側からの脅威にさらされ、治安を守る側が社会の防衛を口実に密告を奨励すれば、こうした事態は発生しうるのである。「魔女狩り」はけっして過去の記憶ではないのだ。
【おわり】