2017年度の問題分析ゼミ第11回の議事録です。
日時:2017年6月27日 15:20~19:30
会場:リバティータワー13階 1131教室
参加者:20名 江下、鈴木G(5)、上杉G(5)、乗岡G(4)、西村G(5)
欠席者:3名
1.個人発表
(1)
発表者:横山未希
課題本:『『ぴあ』の時代』
【発表の概要】
1971年に無差別テロと学生運動が終息しエンタテイメント性を求める空気になった。1972年7月に『ぴあ』は創刊されたが1万部印刷された内、2000部しか売れなかった。そのため映画割引サービスを導入し徐々に売り上げ部数を伸ばした。当初は取次や書店から拒否されることが多かった1976年には取次との取引を開始することができ売り上げを更に伸ばした。
(2)
発表者:鈴木智捺
課題本:『渋谷系』
【発表の概要】
70年代の渋谷では百軒店のロック喫茶や渋谷ヤマハが音楽ファンの集まる場所となっていて栄えていた。80年代になると輸入中古レコード店が登場し、91年の湾岸戦争を境に徐々に円高傾向になり多くの中古レコード店が渋谷に進出した。90年代の宇田川町は「世界一のレコード店が多い街」としてギネスブックに載った。80年代にはDo It Yourselfの精神で貸レコ屋やフリーペーパー、カセットマガジンなどによる自主制作が盛んになった。90年代のPCマックの登場により、短時間でクオリティの高い制作ができるようになり渋谷系は更に発展した。
(3)
発表者:岩脇史樹
課題本:『平凡パンチの時代』
【発表の概要】
昭和32年「パンチ・メンズモード」の編集者の堀内誠一と立木義浩のコンビが評価され、異なるグラビア表現の追求と全く新しい雑誌の試行錯誤が行われるようになった。昭和40年代、車は男の子の憧れとされており昭和を代表するレーサー生沢徹は誌面のアイドルであった。昭和38年『平凡パンチ』の表紙のイラストレーターを務めた大橋歩は時代の空気を意識して描いていた。この当時の若者がボクシングに熱心だったことから試合の特集や予告も取り上げられた。『平凡パンチ』はそれぞれの人物の思いや考え方が強く反映され、特に若者に受け入れた雑誌であった。
(4)
発表者:室井真実
課題本:『女子の誕生』
【発表の概要】
「女子」という言葉を最初に掲載したのはマンガ家安野モヨコが書いた『VoCE』のエッセイ「美人画報」であった。そして1999年の宝島社の青文字雑誌『Sweet』から広がった。『Sweet』は女子大からアラサー世代までに人気となり、日本で一番売れている雑誌となっていった。そして赤文字雑誌においても「ワーママ」や「美魔女」という言葉が現れ、青文字雑誌が赤文字雑誌に影響を与えるようになる。「女子」たちは「私萌え」のために「女子」を着て、「女子」を生きている。
(5)
発表者:乗岡美里
課題本:『女学校と女学生 教養・たしなみ・モダン・文化』
【発表の概要】
高等女学校は最終教育機関であった。1910年頃から独自の女学生文化が形成されるようになり30年代頃までには大衆化した。女学生は国語好き、裁縫嫌いで趣味は部活やおけいこを楽しむオールラウンドタイプであった。女学生間での手紙交換ではお互いに価値観を共有するなど親密な関係の形成に役立った。親密な同性同士の関係である、エスが出現し対等な関係で手紙交換が親しまれた。しかしながらこうした女学生の文化はしばしば批判の対象となり問題視された。卒業後でも女学生文化を女性が多いという。
(6)
発表者:中村佳保
課題本:『ヤンキー進化論 不良文化はなぜ強い』
【発表の概要】
ヤンキーと定義される条件は「階層的には下」、「旧来型の男女性役割」、「自国的や地元を志向」の3要素であった。70年代ディスコで遊んで女ウケを意識した私服を着ている人たちのスタイルがヤンキーと呼ばれ、ツッパリとは別のものであった。70年から80年代にかけては暴走族の全盛期となり特攻服やドカジャンが登場した。80年代から90年代にかけてヤンキーファッションは多様性を受容し様々に派生したがヤンキーは消えなかった。ヤンキーの拡散にはメディアの影響力が強かった。
以上
文担当:鈴木
編集担当:上杉