2018年度:問題分析ゼミ[10]

2018年度の問題分析ゼミ第10回の議事録です。

日時:2018年6月19日(火)15:20~19:30
会場:明治大学リバティタワー13階1131教室
参加者:21名 江下、高橋、山本G(5名)、星野G(5名)、中島G(6名)、土屋G(5名)
欠席者:0名

1. 連絡事項
 なし

2. グループ発表
(1) 星野グループ
課題本:日本レコード文化史
発表者:栗橋、美濃和
発表範囲:第1章、第2章
【発表の概要】
・1870年代、80年代は文明開化の時代であり、フォノグラフやグラフォンなど外国の発明はすぐに日本でも報道された。音楽という面では文化の違いのため、定着するまで時間がかかったが、技術はすぐに取り入れられ国内生産された。各地に技術者がいたことで近代化は急速に進んだ。
・輸入から国内生産へ至るまでのスパンが短いことから、音響再生産装置がいかに人々の願望をかなえる物だったかがうかがえる。レコードが国産化されると、その人気はより高まり、販売会社は急速に成長した。しかし、そのような人気のあるものでもはじめは非難の的とされることもうかがえる。

(2) 土屋グループ
課題本:日本映画史110年
発表者:興梠、藤中、篠﨑、太田
発表範囲:序章~第3章
【発表の概要】
・日本映画は時代によって映画館やジャンルの定義が異なるが、大衆演劇などの伝統文化と交流をもちながら発展してきた。また、東京と京都の2つの都市がもつ対照的作風が競い合うことで発展した珍しい例である。
・映画が日本に到来して以降、大衆演劇と関りをもちながら、独自の発展をしてきたが、その社会的地位は低かった。初期の日本映画の特徴として弁士の存在があげられ、彼らは日本の演劇的文脈のなかで受容されたことで発達し、存在が消えた現在も弁士の痕跡をみることができる。
・純映画劇運動によって女優の誕生や映画的技法表現が重視されるなど日本映画は転換期を迎えた。また、運動がおわったあとも、映画会社の作風が変化したり、時代劇が発展したりとその影響はのこっていた。

(3) 中島グループ
課題本:掛尾良夫『『ぴあ』の時代』(2011)
発表者:鯉淵・小口
発表範囲:第2章『ぴあ』の誕生
【発表の概要】
1972年7月、『ぴあ』はたくさんの人脈に支えられて誕生した。精密な情報誌『ぴあ』は、次第に人々にも書店にも広く受け入れられるようになる。
矢内は、自分のアパートに仲間達と集って、イメージする『ぴあ』の誌面を手書きで作ることから始め、アマチュアっぽさが、プロの作る雑誌の中で逆に目立った。出会いの人脈は『ぴあ』の誕生にあたって大切な要素であり、7月に『ぴあ』が世に出た。ぴあの編集方針としては、5W1Hを掲載し、編集部の主張といった主観を一切排除した。編集部と読者は対等な関係であるとした。この対等性は、同世代の読者から広く受け入れられた。1976年になると、読者が推定していた8万人を超えた。自ら出向いての配本では当然足りず、車を使って配本するようになった。やがて書店の方からもぴあの注文も入るようになった。そうして自前での配本も終わりをむかえた。

(4) 山本グループ
課題本:ヤンキー文化論序説
発表者:白取
発表範囲:第2章
【発表の概要】
ヤンキーのファッションや音楽、漫画、建築などを表現文化の一面から見ることで、その創造性の深さについて知ることができる。オタク文化の審級が「趣味」に存しているのに対し、ヤンキー文化は「階級」に存している。ヤンキー的美術として認めるには、作品そのものや製作過程にヤンキー的意匠が取り入れられているだけでなく、アーティストの経歴や思想など作品以外の部分にヤンキー要素が含まれていることが必要である。バイクや車といった機械、ファッション、建築において見られるヤンキーのバロック的表現とは、特定のパーツを肥大化させ、過剰にし、反復する点である。また、見た目のかっこよさに重点を置いており、モダニズムが切り捨てたシンボリズムの体系を再導入している。

3. 反省
発表内容が多かったのだが、もっと順序立てて要点をまとめることでよりわかりやすく、みんなが関心をもつ発表になったと思う。

文担当:土屋
編集担当:土屋