2020年度問題分析ゼミ第11回の議事録です。
日時:2020年7月21日(火)15:20-19:02
会場:zoom
参加者:20名
江下、矢野G(5名)、三ツ松G(6名)、佐藤G(5名)、安藤G(6名)
欠席者:4名
遅刻者:0名
1 連絡事項
秋学期にオープンゼミではなく、ほかの形で2年生に向けた説明会を開催する。
2 グループ発表
(1) 矢野グループ
・発表者:若松
・課題本:『放送の五十年』(NHK編、日本放送出版協会、1977)
・発表範囲:第5章
[概要]
テレビは街頭から家庭に普及し、テレビドラマやテレビ番組が発展した。また、皇太子ご成婚による「ミッチーブーム」が到来した際には、皇太子ご成婚パレードを中継したことでテレビの契約者数はさらに増加した。その後テレビは安保紛争に関する放送を行ったことで一般の政治意識を高め、新しいジャーナリズムとして発展していった。
テレビが普及していくなかで、ラジオは復興の努力をした。そんな中トランジスターラジオの登場によりラジオは車用化し、災害放送や深夜放送などを始めたことでラジオは復活していった。
昭和30年代半ばからテレビ番組はさらに充実していき、視聴者を増やしていった。そして東京五輪の衛星中継を経て、人々は家庭でも世界の動きを見られるようになった。
〈補足事項〉
テレビの放送初期は映像をそのまま流すのではなく、フィルムを現像して流すことが不可欠だった。そのため映画館に赴くのと自宅で見るのとではタイムラグがあまりないため、ニュース映像は映画館で見るものという常識があった。
オーディエンスセグメンテーションについて、マーケティングにおけるセグメンテーションの分け方は覚えておくべきである。また、トランジスターラジオの登場でラジオが持ち運び可能になったこともメディアの歴史の中で覚えておくと良い。
(2) 三ツ松グループ
・発表者:岩元、西本
・課題本:『メディアの生成』(水越伸著、同文館出版、1993)
・発表範囲:第4章、第5章
[概要]
第4章
大恐慌でもラジオは人々を惹きつけた。放送局では費用の高騰により小規模事業主体の撤退があった一方で、既存のマスメディアは参入し続けた。
放送が始まると番組編成や人気に格差が生まれたことから確実な収益システムの必要性が生じた。そこで、ラジオは広告との結びつきを強めていった。これは背景として産業におけるビッグビジネスの台頭において市場を維持し継続的に発展させるために広告が必要とされたという経緯があり、メディアでは広告の収入が増大していった。ラジオにおける広告は、初期段階はラジオのポテンシャルの不理解により失敗に終わったが、ラジオをテレコミュニケーションとは異なるものと考えることで成功を果たした。
第5章
1930年代はラジオの黄金時代であり、エンターテイメントメディアとしての性格を確立した。また、ラジオ番組の編成によりラジオのメッセージが番組として消費される対象になった。その後全日総合編成が確立し、文化産業としてラジオが定着し人々の通時的な楽しみが規範化された。
ラジオの人気番組としては、音楽番組やバラエティ番組があり、少し遅れてラジオドラマが定着した。また、ラジオの報道番組は第二次世界大戦の頃に定着した。
また、ラジオの業務の複雑化により、スポンサーから代理店への番組外注システムが確立した。スポンサーの特徴としては多額の広告費を賄うことが可能な日用品を扱う企業に限定されていた。
〈補足事項〉
ラジオに危機感を感じた新聞によりプレスラジオ戦争が起こった。ラジオ以前に報道を担っていたのは新聞と雑誌であり、当初は報道機関そのものがラジオを報道の媒体として使うこともあった。しかし、全米という大規模なリスナーを持つラジオに対して新聞社が圧力をかけたことでプレスラジオ戦争が勃発した。また、現在のLINEニュースなどのネットニュースの普及においても同じような状況が生まれている。
(3) 安藤グループ
・発表者:小野寺、尾形
・課題本: 『日本流行歌変遷史』(菊池清磨、論創社、2008)
・発表範囲:第2章
[概要]
敗戦後の人々に歌謡曲は希望を与えた。しかし、占領軍の民主化政策により戦前に活躍した歌手は憂き目を見ることとなり、それに対してジャズなどのアメリカ文化が復活した。そしてテレビ放送の開始により歌謡曲は聴くものから視るものとなり、歌謡曲は新しい世代が活躍することになった。
昭和30年代に入ると日本は高度経済成長期に突入し、歌謡界の変化として「望郷演歌」と「プレスリー旋風やロカビリー、都会的なムード歌謡」という二大潮流が生まれた。望郷演歌の登場は都会への憧れから、故郷への郷愁に心情のシンボルが移行したといえる。また、高度経済成長期の国民生活には余裕が生まれ、エルヴィス・プレスリーらによるロックンロールが日本の若者を熱狂させた。その後1960年代に入ると「もはや戦後ではない」という言葉に表されるように、再び戦前の歌謡曲に注目が集まりリバイバルブームが起こった。
〈補足事項〉
『青い山脈』という映画は繰り返し作られており、特に戦後の世代に印象づけられたのは第3作目である。この作品は吉永小百合が出演しており、不朽の名作というイメージを植え付けた。また、戦後は敗戦によって歌の世代に大きな変化が見られた。戦前は正確な歌唱力が重要な時代であったが、それは愛国心などと結びつけられてしまうため、戦後は新しい時代を感じさせるような声が美しいといった新たなスタイルが特に若い世代から求められた。
また、渡辺プロダクションについても覚えておくべきである。渡辺美佐の夫はジャスミュージシャンであり、ジャズ喫茶の復興などから渡辺プロダクションが誕生した。渡辺プロダクションは歌手の発掘など画期的な経営をしており、歌手の使いまわしができた。そのため、渡辺プロダクションは圧倒的な力を持つようになった。
(4) 佐藤グループ
・発表者:田辺、川都
・課題本: 『拡張するテレビ』(境治著、宣伝会議、2016)
・発表範囲: 祭4章、第5章、第6章
[概要]
第4章
テレビCMの代替として動画広告、バズムービーなどが生まれ、動画広告が普及していった。また、二度目の動画広告元年にはメディアオリエンテッドとコンテンツオリエンテッドが注目された。特にパナソニックによるコンテンツオリエンテッド革命では100本の動画が制作され、パナソニックのブランド性からバズだけを目的にしなかった。
第5章
スマートフォンによる動画配信は2010年から開始され、ツイキャスは映像配信よりもコミュニケーションが目的とされた。これはスマートフォンの普及により生まれ、メインユーザーは若い女性であった。また、3カ月で1億人を突破したのがLINE LIVEであり、芸能人が配信することでテレビより身近な「テレビ」となった。さらに、ネットとテレビが融合としたのがAbema TVである。ここでは20以上の番組を24時間放送しており、ライブ配信とは違ってメディアを目指したものである。
第6章
Twitterとテレビのリアルタイム性に注目し、それらが調和することで相乗効果が生まれ視聴率向上に期待が寄せられている。また、テレビを見ながらスマホを操ったり、テレビアプリを利用するといったテレビとネットを組み合わせる様々な工夫が行われている。しかし現実としては多くのアプリの運用は難航しており、ソーシャルメディアとテレビを用いる新たな可能性を探っていかなければならない。
2 反省
特になし。
作成:山路
編集:佐藤