2021年度:問題分析ゼミ[10]

2021年度問題分析ゼミ第10回の議事録です。

日時:2021年6月22日(火)15:20~
会場:駿河台キャンパスリバティタワー10F 1005教室
参加者:20人
欠席者:0人
遅刻者:0人

1 グループ発表
(1)金内グループ
発表者:小坂井
課題本:北野圭介『ハリウッド100年講義史』
発表範囲:序章、1章
[概要]
序章
アメリカでの映画の出現にはエジソンが大きく関わっている。エジソンの相棒が覗き箱型のキネトスコープを作り評判になったことから、エジソンは撮影スタジオを建てた。その後すぐに、リュミエール兄弟が多人数向けの上映会で成功を収めた話から、上映会へとシフトチェンジを行った。これが絶大な人気を博し、安定的かつ永続的な利益を求めて都市の中での映画上映が発展していった。以降、次々に入場料が格安な即席ホールができ、庶民階級を引きつけ「ニッケルオデオン」と呼ばれた。そこで上映されていたものは「見世物」であり、見世物性を引き出すことや技術的な制限から、1つのシーンから成り立っている作品がほとんどだった。
しかし、その後ポーターが物語映画の創造者として初期映画を大転換させた。興行主が映画の最終的な編集を行っていたが、物語映画の自立性を訴えていたポーターによって、映す人と作る人の区分けが行われた。そして制作側は、それまでは興行主に委ねられていた何をどう見せるかという権限を法的に奪取するようになった。こうした映画の産業構造の変化により、いくつかの会社が淘汰されるようになった。そこで、エジソンは勢いのある映画会社を集め「映画特許会社」を設立した。この頃から、庶民階級で流されていた「見世物」的な映画が「教育」ある階級の人たちの間で問題視されるようになった。その結果、規制や取締りが強まることを恐れた映画産業は、公的検閲機関を中産階級に作られる前に独自で設立した。こうして中産階級向けのトップ・ダウン的な映画に対抗するように、独立してボトム・アップ志向で映画を制作する野心家たちが現れたのである。
1章
1900年代後半、ニッケルオデオン経営者のズーカーとフォックスという人物がリードして、ハリウッドの土台となる産業構造を築いていく。フォックスは制作会社と上映興行主との間に長期的な映画の配給契約を結ぶというモデルを成功させ、業界に浸透させた。これに連動して、上映形態の改善にも取り組み、今までには無かった映画上映専門の劇場が登場するようになった。こうして体制が整い始めた映画産業界と同時期に起きていた第一次世界大戦が、アメリカの映画業界を世界のトップに押し上げることとなった。それ以前は、映画においてはフランスやイタリアがリードしていたが、大戦の戦禍に曝され制作水準の低下を引き起こした。そのため、直接戦場にならなかったアメリカの制作会社に世界中が供給を頼るようになり、アメリカの映画の輸出が15年から16年にかけて5倍に跳ね上がることになった。このような中、「ハリウッドの父」とも呼ばれているグリフィスが台頭し始める。彼は制作現場を一新し、 監督・カメラマン・脚本家・照明などの役割の分業化を進めた。また、今までは1つの出来事に1つのショットが対応していた形態から、1つの場面に複数のショットを用いる手法を取り入れるようになった。「シーン」と「ショット」が明確に区別されるようになったのである。
こうした「分析的編集」の登場によって、多くの語法や技法を体系化していった。また、当代随一の映画作家という評判の彼が、大掛かりなセットを組むために「ハリウッド」に赴いたことで、その名が特別な響きを持って浸透していった。こうして「ハリウッド」として産業構造の整理が行われていったのである。

〈補足〉
・高度な芸術、人件費や設備にお金をかけるのではなく、あまりお金を持ってない人たちに向けて上映しようという試みが「ニッケルオデオン」であり、「単純でわかりやすい」作品が求められた。しかしその後、ネタが尽きてきたり、上映時間が延びたりすると、それでは済まなくなり、もっと面白いものをつくろうという意欲が沸き起こってきた。
・当時生み出された一つ一つの映像表現技法が現代の表現に活きている。
e.g.朝ドラ「おかえりモネ」のバックライト技法
・フォックスとパラマウントが、初期の映画事業面で中心的な役割を担っていた。

(2)田中グループ
阪本博志『『平凡』の時代―1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち 』
発表範囲:2章「誕生から躍進期まで」
発表者:田中
[概要]
1945年の誕生から3年後、流行歌と映画を二本柱に据えた文芸娯楽雑誌としてリニューアルした『平凡』は、さらにその5年後、1953年には100万部を超える人気雑誌として確固たる地位を確立した。
『平凡』の特徴は、「テレビ的雑誌」だった点にある。遠い存在である「スター」の日常的な一面や情報を、「対談」や「ロケ」を行うことで開示していき、結果、スターとファンの心理的な距離感を縮めていった。また、今までラジオで聴くのみだった歌謡曲に、歌手の顔写真や歌詞を見る、という機会を提供した。「歌本」の登場で人々は、流行歌を歌えるようになり、ラジオ番組の「平凡アワー」の放送が、よりテレビに近い体験を提供した。さらに、読者参加型企画も盛んであり、人気投票や読者応募型のコンクールに留まらず、撮影所見学やスターとの座談会も企画されており、読者とスターの距離感の近さが伺える。このような理由から『平凡』は若者に愛された。こうした『平凡』の性質は、送り手と受け手との関係性をフラットにしたいとの意思が込められた「読者とともに」という社のスローガンからもうかがえる。

〈質疑応答〉
質問1:1950年代、平凡は人気雑誌になり、活字メディアに取り挙げられるになった」とあったが、活字メディアとは具体的にはどのようなものなのか。
回答:代表的なのは「週刊朝日」
〈補足〉
・「歌本」は60年代当時の若者の定番であった。人気曲であると、そこには楽譜やコードも載っており、「モテる男子」を目指して彼らはアコギで歌の伴奏を練習していた。カラオケが席巻する前の時代の話である。
・1950、50年代というのは、団塊世代がティーンエイジャーとなった年代であり、新しい文化の設計が積極的に行われた。代表的なものは「漫画」であり、漫画家青池保子は13歳という若さで最年少デビューを果たした。

(3)伊藤グループ
発表者:力丸
課題本:田島悠来『「アイドル」のメディア史「明星」とヤングの70年代』
発表範囲:3章「誌面における「アイドル」のイメージ」
[概要]
 1970年代に雑誌として最盛期を迎えた「明星」で「アイドル」の描かれ方について分析する。
表紙という観点で見ると、男女比において半々であり、構図も身体ではなく、顔のアップになっていることが多い。つまり「明星」は、ジェンダー・フリーな雑誌であったと言える。
誌面という観点においては、第一に海外取材記事の多さが挙げられる。実に8割以上の号で記事が組まれるほどだったそうだ。60年代中盤に海外旅行が自由化され、ブームが来ると、アイドルが「初めての体験」として海外旅行の様子が描かれ、大衆の手が届く範囲の憧れを提供する記事となった。また、そうした旅行には家族を同伴させ、「親孝行」としての意味を含んでいた。そしてコンサート開催のための地方巡業に伴う地方取材も取り上げられ、アイドル自身の語りで書かれることが多かった。中でも、帰郷はアイドルが芸能人ではない素顔や感情を出す機会を提供していたが、高度成長によって地方から都市圏に移動する若者と姿が重なり、自己投影する装置となっていた。さらに、生活水準の向上に伴い高校の進学率が急増したことを反映して、アイドルの学生生活に焦点が当てられ、制服姿も登場し、読者に等身大の学生として捉えられた。
  
〈補足〉
・1950年代はまだ映画の時代であり、歌手が求められたのはあくまで歌の実力で、ビジュアルは俳優の担当であった。
・Gパンは当時、作業着、ヒッピー、学生運動の若者たち、といったように世間からあまり良いイメージを抱かれていなかった。それが現代において広く定着した理由としては、有名なデザイナーズブランドが「Gパン=オシャレなもの」としてイメージ刷新したこと、クロスオーバー、ユニセックスなどのファッションの流行の中で、男女問わず履けるスタイルとして定着したこと、などが考えられる。
・ジャニーズで最初に大ブレークした「フォーリーブス」
・山口百恵と桜田淳子
当初は桜田淳子の人気が出なかった際のバックアップ要員として山口百恵を用いようという思惑の元、二人の類似したイメージを打ち出していた。

2 反省
特になし

作成:摂待
編集:田中