2022年度:問題分析ゼミ[7]

2022年度問題分析ゼミ第7回の議事録です。

日時:2022年5月31日(火)15:20-19:10
会場:1141教室
参加者:19名
江下、山岡G(5名)、村川G(4名)、米田G(5名)、三浦G(4名)
欠席者:2名
遅刻者:0名

1 グループ発表
(1) 山岡グループ
・発表者:田島、山岡
・課題本:『『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性』(佐藤卓己著、岩波書店、2002)
・発表範囲:Ⅱ『キング』の二つの身体 
[概要]

 「雑誌王」野間清治は、さまざまな雑誌を手がけて野間流の立身出世主義を唱えることで若者の憧れとなった。彼は、『声のメディア』をパッケージ化することから事業を始め、最終的には『キング』を国民的雑誌に仕立て上げた。

 キングは細分化によって発展する雑誌メディアの特性を超えた機能を有しており、空間バイアスを持ったラジオ的な雑誌メディアであった。1920年後半には、講談社の絵本から雄弁現代に至る世代別雑誌を作った。講談社や野間清治の手法に対する批判も見られたが、一方で講談社少年部は、中学進学の機会を持たなかった少年たちにとって魅力的であり、彼らは販売成績へ貢献した。
〈質疑応答〉
質問1: 編集における「雑・変化・統一」とは具体的にどういうことか。
回答:雑とは総合雑誌、様々なジャンルを指す。統一は、国際知識人主義、大衆化、国民全員での統一という意味を表現している。変化とは、『現代』は弁論へと戻すという意味である。
質問2: 『面白倶楽部』が『現代』に部分的にみられた、という具体例はあるか。
回答:記載なし。
〈補足事項〉
雑は多様性というイメージで、漫画の「漫」も同様なニュアンスを持つ。
1920年代はメディア史的に重要な年である。理由としては、第一次世界大戦後であること、経済の中心ヨーロッパからアメリカへ以降したこと、1925年は世界的に商業のラジオ放送が開始されたことが挙げられる。おおむね景気は良い時代で、ヨーロッパでは男性の出征中に女性が社会進出するようになり、メディアでも取り上げられる。その代表例としてはシャネル革命である。ココ・シャネルによるファッション革命で、それまでは女らしさ強調のスタイルばかりだったが、シャネルによって動きやすさ(ひざ丈・ボブ・ストレート)が重視されたスタイルが流行した。一方のアメリカではジャズ・エイジに入る。

講談社は大手にしては後発で、その時代雑誌市場で大手だった博文館に対するチャレンジャーという立ち位置である。
野間の主張した立身出世主義の背景には、教育機会の地域格差がある。都市部が有利で、特にティーン・エイジャー向け雑誌では都市部の中学校の授業内容がよく読まれていた。雑誌は安いメディアではなかった。主婦雑誌は夫に頼んで買ってもらい、ストックを前提とした。夫婦で読むなど、1冊の雑誌は複数人で読まれることが多く、発行部数の何倍もの影響力があった。
『キング』に対する批判に関しては、元々政党雑誌が主流で、福沢諭吉などが評論・ジャーナリスティックなものを作るべきであり、教育・啓蒙という雑誌の流れが次に来たため、娯楽だけの雑誌に対する抵抗感があったことも一因である。

(2) 米田グループ
・発表者:坂入
・課題本:『『平凡』の時代 1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち』(阪本博志著、昭和堂、2008)
・発表範囲: 第2章 誕生から躍進期まで
[概要]
『平凡』は主要なメディアがラジオからテレビへと移行する時代において、グラビア・小説とラジオ・映画を結び付けて大衆娯楽雑誌として人気を得た。岩堀喜之助の社内の態度や大衆に対する考え方は上下という二項対立を無化する姿勢を示している。
〈質疑応答〉
質問1: 雑誌の対象性別は決まっていたか?
回答: 特に決まっていなかった。読者層は男女半々。
〈補足事項〉
 当時は歌詞が簡単にはわからなかったため、歌いたいときに歌本が必要だった。住所録は ファンが行くために公開されていて、地図も載っている場合があった。載らなくなったきっかけは、昭和32年の美空ひばり塩酸事件が継起と言われている。
絵物語とは紙芝居に近い媒体で、かなり人気なコンテンツであった。漫画までの過渡的な表現形態であったと言える。

(3) 三浦グループ
・発表者: 澤村
・課題本:『「アイドル」のメディア史』(田島悠来著、森話社、2017)
・発表範囲: 第3章 誌面におけるアイドルのイメージ
[概要]
 海外取材記事、地方取材記事、学生としてのアイドルを映し出した『明星』の記事を通
して、高度成長期を生きる若者の様態と失われつつあるものの象徴としてアイドルが扱われていた。
〈質疑応答〉
質問1: 地方取材が行なわれた背景は。
回答: 地方巡業の際に、その様子をまとめたから。
質問2: 「地方」とは帰郷・アイドルの地元を指しているのか。
回答: 観光、帰郷どちらの場合もあった。帰郷だけでなく、例えば南国出身者が雪景色を見る企画などもあった。
〈補足事項〉
 海外旅行の自由化がされる以前は外貨の持ち出しなどに規制があり、円をドルに換えるのも簡単ではなかった。さらに航空料金も高く、パスポート発行のハードルも高いことから海外旅行は一般的ではなかった。70年代に自由化されると、安い海外ツアーなども組まれて海外旅行が自由になる。
当時のアイドルは親孝行イメージと学校生活送っている様子が好まれた。AO入試の一般化からアイドルの大学受験がニュース価値を持つようになる。

(4) 村川グループ
・発表者:村川、川添、鐘
・課題本:『平凡パンチの時代』(塩澤幸登著、河出書房新社、2009)
・発表範囲: 第3章 奈良林祥とセックス革命、第4章 [連載小説&エッセイ]三島由紀夫と野坂昭如、第5章 「イラスト・ルポ」報道班従軍記者、小林泰彦

[概要]
第3章
 日本では[戦後]ムードが終わり、社会が大きく変化していた。その中で創刊された『平凡パンチ』は、「女」あるいは「セックス」という、全日本男子に共通なテーマを扱った。この中で産婦人科医でもあった奈良林祥は、性に関する知識の啓蒙をおこなった。
第4章
 昭和30年代の野坂昭如は芸能界から小説家へと転身し、様々な問題を起こしつつもそのセンスで売れっ子作家となった。
第5章
 小林泰彦は従軍画家の出身で、石川次郎とイラスト・ルポを企画し、海外取材を積
極的に行った。イラスト・ルポは若者の人気企画となり、『平凡パンチ』は若者文化の象徴となった。
〈質疑応答〉
質問1: イラスト・ルポとは何を指していたのか。
回答: 企画名が「イラスト・ルポ」。ルポとはルポルタージュの事を指す。
質問2: 奈良林のアメリカ留学中に、時代的にフェミニズムとの関連はあったか?
回答:直接は記載なし。奈良林は若い人たちの性のモラルに重点を置いていた。政治的より、俗的な方向への興味があった。
質問3:野坂が結婚したのは、何か心境の変化があったのか?
回答:野坂は思いつき、勢いばかり。

〈補足事項〉
フェミニズムは19世紀のフランスで顕在化したと言われている。特に最初は財産権や、親権(認知権)を求めた。その後も女性に対する教育制度や社会的地位のある職業の解放を求める運動が展開され、代表的な運動家としては新聞『ラ・フロンド』を発したマルグリット・デュランが挙げられる。20世紀に入ると性の解放が中心となる。最初に起きたのは避妊の権利を求める運動で、これはアメリカでも同様な運動が起きた。さらに宗教上の理由から禁止されていた妊娠中絶も認められるよう求めた。50・60年代は特にウーマン・リブの時代と呼ばれ、「性的な自己決定権」が強く求められた。男性の快楽は認められる一方で女性は抑圧的であり、この時代はちょうど奈良林の活動していた時代と重なる。1971年には奈良林の『HOW TO SEX』がベストセラーになる。日本においては、太陽族と呼ばれる性に奔放なグループと極端に性的知識が乏しい、保守的な大多数とのギャップが大きかった。『平凡パンチ』はこの保守的な大多数に知識を提供していた。

2 反省
 いつもより少し質問が少ないように感じられた。

作成:坂入
編集:三浦