日時:2023年10月24日(火)15:20-18:50
会場:リバティータワー1141教室
参加者:12名
江下、許田G(2名)、阿部G(3名)、内山G(3名)、福井G(4名)
欠席者:4名
遅刻者:0名
早退者:3名
1 グループ発表
(1)許田グループ(1班)
・発表者:石上
・課題本:難波功士『族の系譜学 ユース・サブカルチャーズの戦後史』(2007年)
・発表範囲:第3章『太陽族の季節』』
【概要】
個性的な多くの「 族」が戦後のメスメディアを賑わすようになった。九〇年代以降は「族」から「系」へ移行していく。しかしながら、その移行や移行の背景についての議論は十分になされていない。「もはや戦後ではない」が流行語になった一九五六年からをスタートとし、歴史的な変遷を追っていく。
【質疑応答】
特になし
【補足事項】
年代と世代の違いを意識する。「太陽族」は、ある時代の若者の現象なので「世代」のライフスタイルといえる。
(2)阿部グループ(2班)
・発表者:細野
・課題本:佐藤卓己『「キングの時代」』(2020年)
・発表範囲:第一章『マス・メディア誕生』、第二章『講談社文化と岩波文化 出版革命と公共性』、第三章『「大衆」の争奪戦 プロレタリア的公共性とファシスト的公共性』
【概要】
第一章
大日本雄弁会講談社が社運を賭けた『キング』創刊号は、『主婦之友』24万部が最大であった当時、増刊を続けて74万部に達した。講談社は新聞広告量でも日本一となり、広告宣伝の成果として『キング』自体もまた優れた広告媒体となり、これまで「美的である/ない」「虚偽である/ない」という送り手のコードによって言説化されていた広告は1920年代に入り「訴求的である/ない」という受け手のコードを軸に語られるようになった。『キング』の成功は政治の舞台への「大衆」の登場という第1次大戦後の巨大な社会変化と対応しており、この大衆社会の成立は、生産中心の「送り手コード」によって生み出される純文芸に対して消費中心の「受け手コード」によって生み出される大衆文芸を作り出した。
第二章
『キング』は「女性の大衆化」と「大衆の国民化」が重なった戰期間に生まれた究極の国民雑誌であり、また読者層の上昇意欲を煽った戦略による読者層の広がりは大衆的な世論を組織する新しい公共空間の出現を意味していた。こうして段々と「大衆=国民」読者が結集した昭和の講談社文化は、しばしば大正教養主義を彷彿とさせる知識人の岩波文化と対比され、「講談社文化と岩波文化」の二項対立イメージが広がっていった。この「講談社文化と岩波文化」において重要なのは、『キング』を愛読した労働者、農民、女性が『思想』や『科学』を読まなかったことに対して岩波文庫を購入した学生・知識人が同時に『キング』も読んでいたという非対称性である。
第三章
「大衆とともに」をスローガンとした「講談社文化」に挑んだ「プロレタリア文化」の試みもあったが、プロレタリア大衆が最もよく読む雑誌は『キング』であった。さまざまになされたプロレタリア的公共圏内部の不毛で閉鎖的な政治主義的論争を尻目に、講談社文化の国民的公共圏制覇は進んでいき、本格的な『キング』の時代が出現した。一つの結論として、『キング』においてその時々の政権を支持する姿勢はあくまで不変であって、政治的な普遍的価値基準は存在しなかったため、『キング』論の多くはその誌面に「天皇制国家の価値体系」や「ファシズムのイデオロギー」を読み取ろうとして政治主義の限界に直面してきたが、「メディアはメッセージである」つまり内容ではなく媒体そのものが重要であるというメディア論からのアプローチこそ、必要であったのではないかと言える。
【質疑応答】
特になし
【補足事項】
「大衆」という単語を理解し、使われている意図を捉える。今回の場合は、「大衆」の対義語は、経済的に豊かな「エリート」である。
(3)内山グループ(3班)
・発表者:内山
・課題本:木村涼子『主婦の誕生 婦人雑誌と女性たちの近代』(2010年)
・発表範囲:序章、Ⅰ『ジェンダー化されたメディアの世界』
【概要】
男性と女性の関係、性役割分業についての情報を中心としていた婦人雑誌は、近代的なジェンダー秩序の形成や構築を果たしたマスメディアである。婦人雑誌が誕生した背景を踏まえ、『婦人公論』『主婦之友』の二大雑誌から当時の女性が置かれた状況、求められていた女性像を考える。
【質疑応答】
特になし
【補足事項】
近代以前の「国家」や「家族」とはどのようなものだったか考え、抑えておく必要がある。昔は、子供は麻疹や天然痘などで簡単に死んでしまう存在であった。そして、その危険な時期を乗り越えたら、仕事を始める。そのため、それ以降は「子供」として扱わなかった。また、昔は小さい子供の子守は、働くことができなくなった老人が行い、若い人は働いた。つまり、昔は武士以外には「家族」という概念はなく、「家族」という概念が根付いたのは近代以降である。
(4)福井グループ(4班)
・発表者:藤原
・課題本:阪本博志『『平凡』の時代〜1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち〜』(2008年)
・発表範囲:第一章『『平凡』の時代とは』、第二章『誕生から躍進期まで』
【概要】
『平凡』とは、1945年に刊行が始まり、1987年に休刊した雑誌である。1948年に"歌と映画の娯楽雑誌"へとリニューアルし、ラジオと映画に結びつく大衆娯楽雑誌として1950年代前半に飛躍的に部数を伸ばした。当時の読者層として10代後半から20代の男女の働く若者が多く、それが多数派であったティーン・エイジャーたちの文化の台頭において『平凡』は重要な媒体であった。
1950年代当時多数派であった働く若者と大学生との間には大きな断絶が存在していたが、高度成長により両者の文化の境界は曖昧になった。当時、近代日本を代表する大衆娯楽雑誌『キング』は学歴エリートも読者層に含まれていたが、『平凡』は義務教育を終え労働に従事する若者に愛読され、大学生が人前で読むことを恥とするような「ミーハー雑誌」という位置付けであった。知識人と大衆という二項対立図式が存在していた。
そうした中、当時の学生運動に違和感を感じていた西村和義は、知識人と大衆、都会と地方との溝を埋めるべく独自の平和運動「帰郷運動」を行なった。また、『平凡』の「お便り交換室」でのこの運動を紹介する投稿・掲載をきっかけに全国から受け取った手紙の返信を書くため、大学生約150人を集め「文通運動」を展開した。西村の運動はさまざまな二項対立図式を越えうるものとなり、『平凡』というメディアはその可能性を秘めたものとなった。
1970年代、『平凡』は高度成長によるテレビの普及とともないアイドル雑誌へと変貌した。当時の主な読者層は小・中・高校生の女子であった。70年代以降は若者文化の歴史社会学的研究が進められ、「青年」に代わり「若者」という言葉が頻繁に使われるようになりその概念が一般的に定着した60年代からの連続性が論じられるようになる。しかし、60年代の新聞記事の見出しに用いられた「若者」という言葉は働く若者、とくに未組織の若年労働者を表象していた。一方で、1970年の日本社会学会シンポジウム「青年問題」で扱われていたのは高学歴の若者であった。つまり、学歴エリート中心の枠組で事象を把握されてきたが、『平凡』を解読していた何百万人もの人びとの姿は把握されてこなかった。そして当時盛んにおこなわれていた研究は、何らかの施策を受け導かれるべき存在としての勤労青少年像が前提であり、それらは産業社会のための研究であり働く若者の文化的側面に対するまなざしが乏しかった。
【質疑応答】
特になし
【補足事項】
1950年代以前は中卒で働く人が多かった。徐々に進学率が上がるにつれ、雑誌『平凡』は大きく変化していった。また、1950年代以前は集団就職した人が多かった。彼らは、同世代と繋がりを求めるために、雑誌『平凡』のイベント、そしてサークルなどの機会を多く利用した。
2 反省
本の内容が難しかったためか、聴くことに集中してしまい質問が出なかった。
作成:内山
編集:阿部