2023年度:問題分析ゼミ[20]

日時:2023年12月12日(火)15:20-18:50
会場:リバティータワー1141教室
参加者:13名
江下、許田G(3名)、阿部G(3名)、内山G(2名)、福井G(5名)
欠席者:5名
遅刻者:2名
早退者:2名

1 グループ発表
(1)福井グループ(4班)
・発表者:福井
・課題本:すがやみつる『コミカライズ魂』(2022)
・発表範囲:第3章
【概要】
すがやはマンガ仲間とともに石森プロから依頼された最初の仕事はコミックス化するために『快傑ハリマオ』をトレスすること。石ノ森は他にも多数のコミカライズを手掛け、新しいことへのチャレンジをする。1971年に石ノ森原作の『仮面ライダー』が東映制作によって放送がスタートする。
『巨人の星』などによって、読者が高齢化。講談社は低年齢の児童をターゲットに「テレビマガジン」を新たに創刊することになる。「テレマガ」での仮面ライダーの連載はテレビ版の『仮面ライダー』をベースにする必要があった。テレビ版はストーリーが単純でつまらないから、怪獣はテレビのものと同じにするがストーリはオリジナルなもので提供した。
1972年になると「冒険王」での『仮面ライダー』の連載を打診された。これは「冒険王」の起死回生の最後の手段であると考えられた。『変身忍者嵐』の影響で「冒険王」では過激な表現も使う。
筆者は「冒険王」の編集者にクビを宣言されるが、石ノ森が続投を要求した。すがやの名前を出すことですがやには漫画家としての自覚が芽生えた。すがやは絵が下手でも生き残るために複数の怪人を出すなどの対策をし、アイデアで勝負するようになる。

【質疑応答】
特になし

【補足事項】
石ノ森章太郎という漫画家について、手塚治虫よりすごい漫画家 漫画の王様と言われていた
その後の漫画家のことを考えると石ノ森が与えた影響は大きい。少年時代から絵が抜群に上手で、手塚治虫もアシスタントを依頼した。ストーリー作りも上手い。月に何枚も原稿を書いていた。
週刊連載のためには大量のアシスタントが必要。70年代に人気の少女漫画家も石ノ森章太郎の漫画に憧れて漫画家になった。石ノ森は全ジャンルにわたって少女漫画も青年漫画も書いていた。日本の漫画はコマ割りが複雑で、コマの大きさなども変わってくる。その可能性を見出したのも石ノ森と言われている。少女漫画は表現の実験に使えると手塚は言っていた。石ノ森もその例に習って実験を行った。この時代の多くの漫画家は映画マニアでもあり、映画でのシーンをどのように漫画で表現するかを考えた。溝口健二の映画の表現を石ノ森は表現しようとしていたのではないか。通常の漫画表現とは明らかに違う。石ノ森章太郎の筆頭アシスタントは永井豪『ハレンチ学園』、スカートめくりを流行らせる。SFで異形、巨大ロボットを積極的に描く『デビルマン』『マジンガーZ』。国外でも人気の漫画を生み出した。いしかわけんは永井豪のアシスタント。石ノ森の孫弟子。
石森章太郎はトキワ荘作家の一人、トキワ荘の中では一番売れっ子になった。赤塚不二夫と藤子不二雄と仲が良かった。赤塚は人情系だったけどギャグ系になっていった。ギャグ漫画で成功していた石森が提供していたという話もある。藤子不二雄の『お化けのQ太郎』も石ノ森との合作と言われている。寝る時間がないくらい人気漫画家だった。自分では手掛けられないものは若手やアシスタントに回していって、その経緯の中に『仮面ライダー』がある。すがやさんにクビを言い放った時は壁村さんが「漫画王」の編集長だった。手塚治虫の引退を言った『ブラックジャック』を作品にする。人気が復活する。締め切り破りの常習犯で、編集者にいい酒を出して酔い潰れさせて抜け出す。編集長が来た時も酒を出すが、酔い潰れていなくて逃げ出すのをやめたなどのエピソードがある。
1970年代くらいまでの漫画編集者の地位が低い、特に少年漫画。編集者は文芸をやりたかった。漫画は左遷部署だった。テレビアニメと結びついて漫画市場が大きくなり、収入が得られるようになる。子供の頃から漫画が好きな人が編集者志望になり、70年代後半くらいから漫画編集者の地位が上がるようになる。


(2)阿部グループ(2班)
・発表者:西園
・課題本:赤城洋一『アンアン』(2007)
・発表範囲:第6章
【概要】
モデル・ベロニックを日本に連れて来たいと考える。ベロは赤木の家で2ヶ月ほど下宿することになる。立川ユリと表紙を飾った時に着用していたtシャツが人気に。ベロと赤木の間で意見の違いがあり、問題が起きた。ベロが浅草で捨て猫を拾って赤木に飼えと言ったけど赤木は拒否して喧嘩。ベロは日本での仕事を終えると、編集部は指示を出さなかった。ベロはヒッチハイクで九州の旅にでた。三週間後に帰宅するも家を出てフランスに帰っていった。

【質疑応答】
特になし

【補足事項】
ベロ 典型的な美人ではない、個性的で印象に残る雰囲気の持ち主 
男性向けの雑誌は可愛い、綺麗な人だけど 女性雑誌の女性モデルだから存在感のある人、ノンノとは違う特徴。当時の平凡者は個性的な誌面作りを意識していたことの表れ。
70年代初め頃のアンアン編集部。町に外国人がいることが珍しい。東京や横浜でさえ。外国人の女性が一人でヒッチハイクするのは心配でしょうがない、今の時代背景とは違う。田舎に外国人がいるとそれだけで見物客が来るくらい珍しいこと。

(3)許田グループ(1班)
・発表者:石上
・課題本:藤井淑禎『90年代テレビドラマ講義』(2022)
・発表範囲:第1〜4章
【概要】
テレビドラマが輝いていたのは1990年代、脚本家が主導権を握っていた時代。シナリオ本がノベライズ本に変わっていき、シナリオ軽視の風潮が業界側だけでなく、受け手側にも広がった。ビデオ録画の普及により、ドラマの作りがより精巧化した。テレビドラマの品質・地位が向上した。『ザ・テレビジョン』の「ドラマアカデミー賞」という企画の影響でドラマの客観的評価の必要性が認識され始める。シナリオ・ドラマ・時代性の3つの観点から選ばせた。
野沢と野島のNN時代が幕開けする。野沢は『親愛なる者へ』は不倫をテーマにしていて斬新さがあった。野島の『高校教師』は当時としてはセンセーショナルな話題を取り扱っていた。回想体をナレーションとして組み込み物語全体を統合し、受け入れられやすい物語の骨格を持っていた。
ビデオ録画以外にも撮影用カメラの高感度か・小型化・編集のコンピューター化などの技術革新が行われた。

・発表者:許田
・発表範囲:第5・6章
【概要】
ロケ地巡りについて
現代でいうと聖地巡礼、当時はインターネットによる情報が少なかったから自分たちで探すという手間に楽しみを見出していた。『若葉のころ』(1994)では横浜市にある丘の上の大木、『スウィートシーズン』(1998)は京浜工業地帯の一角にある家。聖地巡礼は場所だけじゃなくて音とかでも主人公のことを感じられた。
ドラマ学における三要素はシナリオ化、ドラマ化、時代性。『白線流し』は学園ものという伝統的なテーマの重要ポイントは進路、恋愛、家庭。学園ものは登場人物が多くなるけれど、それが整理されていたドラマとされている。当時の日本の流行であるテレクラ、スーズソックス、いじめなどを一切取り扱わないで現代を批判するという反時代的な作品。新人女優の抜擢やタイトル

【質疑応答】
特になし

【補足事項】
ドラマを学問するというのは、アプローチ的には映画と変わりないが、映画とドラマで違いが出るのは時代性を扱うかということ。ドラマは放送している時に見てもらわなきゃいけないから話題性が必要。ドラマは1クールなので、時代性に対しては敏感である。シナリオの研究は文学的なアプローチが中心。シナリオでテキスト表現されているものをどのように映像で表現するか。カメラの小型化やCGでの処理。ドローンでの撮影が今の流行。上から撮影しやすくなり、上からの撮影の割合が増えた。時代性についてはどこのそれが現れるか。ドラマはその時代の写し鏡なので、何がタブーだったかを見ることができる。現代では同性愛に対する表現の仕方。特に男性の同性愛を描くことがカジュアルに扱われるようになっている。時代を表している。当時ではタブーだったからセンセーショナルな描き方ができた。性の表現は青春ドラマや学園ドラマでも80年代90年代で変化がある。離婚した女性の描き方にも違いが見える。離婚した女性は出戻りとして扱っていた。NHKは扱わなかった。今ではバツイチとしてカジュアルに扱われるようになった。不倫の描き方も違ってくる。浮気と不倫は何が違うのか。
ドラマの中での描写の変化を時代を追うツールとすることができる。

(4)内山グループ(3班)
・発表者:池村
・課題本:木村涼美『JJとその時代』(2021)
・発表範囲:第3・4章
【概要】
大学と地名のブランド化を行った。慶応はハイカラで早稲田は芋くさいイメージ。児湯学の幼稚舎があるかなどの外部の判断がほとんど。服は店舗に買いに行くという時代なので地域性が出る。ブランド化することで読者のコンプレックスやプライドを産む。女子高生や大学生を窮屈にしてしまうが、ブランド化することで他の要素で補っている。読者モデルは読者からも編集者からも人気だった。読者デルはプロのモデルよりも真似しやすく、現代のインフルエンサー的な位置付け。雑誌の内容は男性に選ばれたいという欲求。JJは男性に妻として選ばれることを提唱。当時はOLから専業主婦が出世コースだった。大学生は妻として選ばれるためにJJを読む。高校生は今を楽しむための教科者としてEGGなどのギャル雑誌を読む。女性としての幸福というレッテルがなくなり、スタイルごとの派閥などがダサいと考えるようになった。集団で同じ格好をすることや海外の情報を得られるようになったことから日本特有の文化が廃れていく。雑誌業界は衰退する中で、極端はジャンル性を持たないものが今でも残っている。

【質疑応答】
特になし

【補足事項】
JJはおしゃれという切り口で格付けをしていた。大学に対しても格付けが行われた。おしゃれな女の子たちが一緒に歩きたい男子の大学生の格付けなども行われた。JJではシンボルタウンとして自由が丘がおしゃれな場所として人気になる。80年代初めくらいまでは女子大学生は集中していた。六本木も以前は俳優を目指す人やミュージシャンがいるような町だったけれどシティボーイが人気の時代にディスコができておしゃれな町になった。渋谷では公園通りがおしゃれな人たち、センター街とは違う系統の人が集った。新宿の歌舞伎町や飲屋街はそうではない場所として扱われた。おしゃれな男子大学生がいる大学は上智と青学と成城。厚木に青学ができてから変わった。偏差値の逆転も生じた。80年代では郊外に移転するというのが流行だった。JJが強かった頃はブランド、格付けをするくらいの権威を持っていた。

2 反省
雑誌いついての理解をより深めることができ、良かった。

作成:竹内
編集:内山